四章──少年の救世

その1

 強烈な横風が笛波ふえなみヒナワの肌を撫でる。

 突風に対して紫の髪を抑え、半身で手摺りにもたれかかることで少女は持ち応える。

 エレベーターを兼ねる三基の支えと中心部を繋ぐ接続部は地上一〇〇メートル付近に存在し、支柱部を囲う外縁に階段は併設されていた。

 今回のような非常時の使用が前提であり、平時であらばまず使用する機会のない場所は手入れに乏しい。各所には錆と塗装剥げが目立ち、走る度に足場が軋みを上げる。

 不安を覚える要素は数あれど、少女が目的地を目指す速度を落とす気配はない。

 今は可及的速やかに展望台まで上り、首謀者たるイクサを捕縛するのが最優先。

 やがて階段は終点である内外を繋ぐ扉へと到達し、ヒナワは躊躇なく取っ手を捻る。


「誰もいない……」


 扉の奥の光景は、装飾や展示物を穢す鮮やかな赤を除けば不気味な程に平時と変わらない。銃痕や事切れた肉塊が跳び込むのを覚悟していたヒナワにとっては、嬉しい誤算とも言える。

 尤も、テレビ中継の時点で乾いた銃声がイクサの背後では鳴り渡っていたのだ。どこかに隠れて機を伺っている可能性は〇ではない。

 地上と中心部を繋ぐエレベーターの付近に展望台への直行便を発見するが、僅かな躊躇いを見せるとヒナワは階段を求めて足を進めた。

 靴が床を叩く音が嫌に反射する。

 人気のなさが不自然な程で、階段を上るまでの僅かな時間で全員地上へ下りたのでもなければ辻褄が合わない。


「警戒しなくていいから、その方が好都合だけど……」


 道中に飾られていた、銃殺された総理大臣の等身大人形に鮮血がこびりついている光景は前衛的に過ぎて意図的な造詣ならば炎上は免れないだろう。そうでなくとも、総理大臣襲撃事件の跡地である不撓の塔でテロリズムを働くなど蛮行にも程がある。

 展示物を穿ち、硝子の欠片が血潮に混じって散乱する有様は否応なしに惨状を直視させる。配信者としてのヒナワはカメラを回したい衝動に駆られるが、今日ばかりはそれをやる訳にはいかない。

 一〇〇メートルの地点から五五〇メートル上空を階段で目指すのは、尋常ならざる消耗を強いられる。

 かつて開催された階段垂直マラソンなる企画に於いてのギネス記録は一時間六分。三五〇メートル三周と四五〇メートル一周の合計と考えれば、凡そ一周辺り一五分程度の時間を必要とする。

 階段を完走させるのも罠なのではないか、と疑問に抱きつつもヒナワは駆け上がった。

 普段から賞金稼ぎとして走り回っている少女にとっても慣れない行為は、少なからず体力を消耗させる。展望台の扉が視界に入った頃には浅く呼吸を乱していた。


「この先に、イクサが……!」


 いつしかホルスターに収納していたグロック一七を引き抜き、安全装置を解除。

 扉の先に待つだろう怨敵──滝飛沫たきしぶきイクサへと照準を合わせる。

 一説には総弾数になぞらえた商品名とも言われる一七発入りの弾倉が、装填済みの分を含めて五つ。奥の手と含めると、弾数は過剰なまでに。男子用のブレザーに解れはなく、拳銃程度の威力ならば無傷でやり過ごせるだろう。


「……怯えてる?」


 扉の前で装備を確かめるなど、進むことを拒んでいるかのようだ。

 頭を振って臆病風を追い出すと、ヒナワは取っ手を捻り展望台へと侵入を果たす。

 乾いた空調の音が硝子張りの部屋に木霊する。

 内部では何人分の血が流れたのか、不快な鉄の香りが鼻腔を刺激した。円形に広がる横幅一二メートル近い道路には、椅子に座ったままの死体や逃走を図ろうとした死体が散乱している。

 窓越しに伺える外の光景もまた、鮮やかな青空を侵す漆黒の煙が散見し、街並には朱が混じっていた。

 ヒナワの記憶にある色鮮やかなビルの明かりは、当面の間拝むことが叶わないだろう。

 想像を絶する惨状に眉を潜めるヒナワの鼓膜を、不快極まる上機嫌な声音が震わす。


「待ってたぜ、ヒロイン。

 ほら、本編前にオーディオコメントでも撮っとくか」

「滝飛沫、イクサ」


 薄紫のロングコートを着用した男は、ヒナワのすぐ側に位置する椅子から話しかける。両脇に侍らせた死体の観客は、悪趣味にも血で笑みを描かれていた。


「サクラでも呼ばなきゃ演目に自信がないの?」


 銃口を突きつけ、嫌悪を露わに暴言を吐くヒナワ。

 一方、両腕を組み余裕の表情を浮かべるイクサ。眼前の銃口など目に入らぬとばかりに口端を歪めると、喉を鳴らして反論する。


「ククク……衆愚とは作品のクオリティじゃなく賞賛の声を評価する。尤も、俺からすれば大勢を盤石にするための工夫だがな」


 人差し指と中指、親指を合わせて擦る仕草は料理に塩をまぶす様を彷彿とさせる。

 上半身を起こし、勢いをつけてイクサは席を立つ。ヒナワは油断なく拳銃を構え、一定の距離を維持した。

 不審な動きを見せれば、即座に発砲する。

 深呼吸を繰り返すヒナワは、決意と共にグリップを固く握り直す。


「今回の脚本は手応え抜群だ。何せこれ以上ない日付に舞台設定、それに期待の新人主人公ッ。いやぁ、業界の未来は安泰だなぁ!」

「この世界はお前の作品じゃない」


 端的に切り捨て、ヒナワは鋭利に眼光を研ぎ澄ます。

 口論に付き合っているのは隙を見つけ次第、眉間に銃弾を打ちつけるため。ゴム弾といえども頭部に直撃すれば意識を吹き飛ばすには充分。

 それを理解しているのか否か、イクサは踊るように身体を回す。


「ならば俺が手掛けることで世界は更なる飛躍を遂げる。さながら野生の原石を磨く宝石師だ。

 俺の手こそが、世界を彩る」

「黙れ」


 交渉の決裂を示すように、撃鉄を叩く轟音が展望台に響き渡る。

 空を切る九ミリパラベラム弾を模したゴム弾はイクサの頭部数ミリを通過し、壁を直撃。一方でイクサも弾丸の軌道を避けると跳躍、少女との距離を詰める。

 突き指防止の掌打の構えで、半身の姿勢で腰を回し。


「ッ……!」


 振り抜かれた一撃が、ヒナワの顔面を射抜き大きく仰け反らせた。

 血が弧を描く中、ヒナワは反射で銃撃。牽制として放った乱射は須らく薄紫のコートをすり抜け、イクサは腰のホルスターから愛銃を引き抜いた。

 前床を筆頭に強度的問題をクリアしている箇所を積極的にウォールナットで固めた中折れ式のシングルアクション。グロック一七と比較して一回りは長大な得物は、自らが扱える銃弾の性能を考慮してか。


「トンプソン・コンテンダー……単発式の代わりにライフル弾を扱える最高にピーキーで、物語に相応しい愛銃だ」

「まずッ……!」


 背筋に走った悪寒に殉じ、付近の椅子に身を隠すヒナワ。

 破滅的な轟音が鳴り響き、大気が破裂。直後に少女の隠れた椅子を数個外れた場所が軒並み薙ぎ払われる。衝撃に揺れる髪が乱れ、半歩照準がズレれば身体が穿たれていた事実に呼吸を忘れさせた。

 黄金色の空薬莢が無機質に床を転がり、破砕音に紛れる。

 聞いた者の意識を一変させ、周囲に災厄を巻き散らかす。

 硝煙をたなびかせる銃口は、寝起きの煙草を彷彿とさせた。


「因みに俺の場合、装填は一射につき概ね八秒……」


 剥き出しになった銃身の内側へ、イクサは懐から一発のライフル弾を取り出して押し込む。奥まで挿入したのを確認すると、腕を振り上げた反動で装填を完了した。


「何の自慢?」


 腹立たしげに呟き、ヒナワは左手で鼻下を擦る。

 手の甲に付着した血は鼻の骨が折れたことを暗に主張し、事実として粘膜を刺激されたことで神経が連動して涙が視界を滲ませた。


「単発式の宿命さ、一発撃つ度にリロードの手間を必要とする。だから、その隙を補うために速度を上げる必要はあるし……」


 椅子を足場にして跳躍するイクサ。

 天上に触れるかどうかの高度は、椅子の背から顔を出していたヒナワが見失うことはない。

 しかし、彼女が体勢を立て直して距離を離すよりも早く左手を含めた三点で着地したイクサは、床を蹴り上げて加速。滑空を思わせる速度で迫ると、勢いに任せて腰を捻った。

 鞭の如くしなる回し蹴りに対し、辛うじて身体との間に左腕を挟むヒナワであったが。


「ぐッ、つッ……!」


 七〇キロ近い体重に助走を乗せた一振りを耐え凌ぐには軽過ぎた。

 背を預けていた椅子ごと身体が吹き飛び、衝撃に吐瀉物に混じって空気を吐き出す。

 教習所で習った受け身を思い出し、頭をぶつける事態こそ回避するも、背筋を凍らせる危機感が彼女の足を駆動させた。直後、数瞬前に立っていた地点を通過するは人一人殺めるには過ぎた火力の弾丸。

 破滅的な音から逃れるべく、ヒナワはグロックの照準を雑多に合わせると牽制の意味も込めて斉射。

 硝煙の香りと腕を蹴り上げる衝撃への興奮を呼気から排出し、中央部の柱に隠れる。

 今更トリガーハッピーに陥るほど未熟ではないものの、イクサを前にして必要な練度は新人から一歩踏み出した程度のものとは異なる。


「腕は折れて、ないけど……!」


 グリップから排出された空の弾倉には目もくれず、予備の弾倉を装填。数日前に買い換えた割には慣れた手つきであるが、痺れの残る左腕では多少のもたつきを見せる。

 そして僅か数秒のロスが、一撃必殺の得物を握る戦いの場では致命傷と化す。


「今からへし折るッ!」

「なッ……!」


 視界に入る薄紫のロングコートへ反射で拳銃を向ける。が、引金を引く寸前に手を弾かれることで照準がブレ、目標を失った弾丸が斜め前方の照明を破砕。

 更に身を翻すイクサのロングコートがはためき、ヒナワは眼前の敵を見失う。

 どこを撃つか。

 一瞬でも悩んでしまえば、敵の思う壺。

 足を止めた隙に炸裂する後ろ回し蹴りがヒナワの左腕ごと腹部を穿ち、床に激しい擦過痕を刻ませる。


「フー……フー……!」


 全身に力を張り、喧しいまでに荒い呼吸を繰り返し、猫背にはなっても倒れることだけは防ぐヒナワ。

 しかし本人の意志とは無関係に左腕の肘から先は力なくぶら下がり、腕を伝って血潮が滴る。中指から一滴一滴身体を離れる体温は、展望台を穢す新たな血の海として照明の光を反射する。

 折れた。

 内部から神経を刺激する、気が狂う激痛を前に歯を食い縛って耐え、涙と冷や汗と乱れた紫髪で崩れた顔のヒナワは敵を睨む。


「おいおいおいおい、そんな顔すんなよ。今の時代はジェンダーレス、老若男女問わずにぶん殴った方が需要あるんだぜ」


 射殺さんばかりの憎悪を込めた眼光も、脚本を盛り上げる演者のアドリブとばかりにイクサは受け入れる。

 数メートルの距離を隔ててなおも届く大きな呼吸音は、最早激痛が正常な動作を妨げるためか。もしくは心中より湧き上がる怒気がそうさせるかの判別がつかない。

 突きつけられる事実は、少女が振り上げた右腕と銃口から覗く底なしの殺意が表明した。


「いいねぇ、そんだけボロボロでもなおも抵抗を見せる表情。実に前座に相応しいッ。

 主人公が現場に到着する刹那、今際の瞬間に見せる表情ッ。あぁ、これで全ては終わる。自分は無駄死になんかじゃないという期待ッ。観客を煽る圧倒的勝利フラグと、それがへし折れる絶望ッ。これこそが最ッ高の脚本だ!!!」


 両腕を大仰に広げ、興奮のままに口を走らせるイクサの表情は恍惚に歪み、縮んだ瞳孔は狂気を全面的に押し出す。

 仮に平時であらば、少女は二の句もなく撤退していただろう程に。

 一歩も後退ることなく、心の冷めた部分で勝利のファンファーレが鳴る訳がないと諦観を抱き、それでもなお銃口をイクサへ注ぐ理由。

 心中の大部分が興奮で撤退という選択肢を忘却しているのは事実。

 今更撤退が叶う訳がないのも事実。

 そして、配信活動を手伝った少年への礼を述べていない後悔も大きい。

 しかし、それらは最大の理由とは異なる。


「お前の、脚本なんて……どうでも、いい……!」


 息を荒げ、激痛に喘ぎたい感情を抑え、滝飛沫イクサと対峙する理由。


「まだ、私は……誰でもないッ……!」


 やり残したこと。慚愧の念。

 世界に自分の、笛波ヒナワとしての存在を刻み込む。

 誰かの親族という付加価値を加えた上ではなく、個人としての名と存在と、生き様を。


「ハッ、やり残したことがあるってのは無常観が出ていいねぇ。だが、誰でもないってのはちょっと意味不明だな。笛波カソウの娘じゃ不満か?」

「お前の……不撓の塔で起きたテロ事件の首謀者の首……美少女が解決したなんて、世間は凄い評価すると思わない?」

「ハッ。意識が混濁してるとすれば、悪くねぇ煽りだ」


 双馬そうば君、ごめん。

 どこまでいっても私には、この部分だけは譲れない。たとえ君への謝罪を言いそびれる結果になろうとも。

 だから。

 だから!


「お前を、ここでッ!!!」


 引金を引き、同時に獣の如き前傾姿勢で突貫。

 炸裂するゴム弾の連射は薄紫のロングコートが遮られ、致命とはなり得ない。

 それでも、足を止めたイクサとの距離を詰めるには充分。勝利を確信して慢心を露わにした男は、なおも抗うヒロインの姿に口端を歪めるばかりで動く気配は皆無。

 やがて遊底がロックして弾切れを主張すると、ヒナワは大きく振り被ってグロックを投合。

 鬱陶しげに払い除ける仕草で床へ転がるポリマーフレームには目も向けず、懐に入り込んだヒナワは乱暴に腰を捻る。掬い上げる右の裏拳は武道の型とは程遠い素人の力任せ。

 それでも、軌道はイクサの下顎を正確に捉える。


「それは悪手だろ」


 冷たく、酷薄に呟くと、イクサは空いた左手で必死の抵抗を掴み取り、指に力を加えた。

 万力を彷彿とさせる握力はヒナワの白肌に痕を刻み、元より固く握り締めただけの拳は容易く解ける。骨折とは異なる鈍い苦痛にヒビが入るのも厭わず奥歯を噛み締める。

 しかし、ヒナワの意識が突然混濁する。


「ッ……?」


 身体から力が抜け、足から崩れ落ちる。右腕だけ宙に留まっているが、あくまでイクサが掴んでいるが故。

 銃底で頭部を殴打されたためだと理解したのは、視界に微かな朱が混じった時。


「そうだな、そろそろやっとくか」


 軽薄に、やり残した仕事に手をつけるような気軽さで。

 イクサはヒナワの頭部にコンテンダーの照準を合わせる。

 一度漆黒の銃口からライフル弾が放たれれば、人間の頭部はトマトよりも容易く内の朱を外気に晒す。それは数時間前、イクサがテレビ局の看板リポーターを相手に実践してみせている。

 撃鉄を上げ、安全装置を解除。


「かくして主人公が到達する僅か数秒前、ヒロインは惨劇の海に沈み、再開は御使いの下でってなぁ!」

「一生、言ってろ……」


 演劇の口上を述べるよう高らかに、誰に向けたものでもない言葉を並べ立てるイクサ。一方で唯一彼の弁を耳に入れているヒナワは、乱れる意識を振り絞って吐き出した。

 無論、生殺与奪の権を握っている男が弱者の言葉に耳を聞き入れる訳がない。

 そして自らが手掛けた脚本に酔い痴れている男には、少女の瞳に灯る微かな光も、それが指し示す意味も理解できない。


「最期の台詞には、少々味気ないんじゃないか。ほら、もっと絞り出そうぜアイデアを?」

「別に、絞り出す気も……最期にする気もない……!」

「……?」


 首を傾げた刹那。


「漸く見つけたぞ、三流脚本家ッ」


 背中に走る鈍い激痛と、待ちかねた少年の声がイクサの意識を釘付けにした。

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