一章──配信少女

その1

 逃げる。

 全速力で駆け出して逃げる。

 脇目も振らず、ただ力の限りに足を回して懸命に逃げる。


「はぁ……はぁ……はぁッ……!」


 角を曲がり、背後から迫る乾いた銃声に身体を竦め、つまづき倒れそうになる度にバランスを整えながらひた走る。

 たなびく紫の髪は収集のつかない程に乱れ、整った顔立ちの顔には大粒の汗を滝の如く流して。男子用の青いブレザーにも、チェック柄のスカートにも湿ったものを滲ませて、ただひたすらに笛波ふえなみヒナワは逃げ出していた。

 その様子を目撃しているのは、頭部に取りつけたバラエティで用いられるようなヘルメット一体型のカメラ。稼働中であることを示すように、レンズの下では赤い点が煌々と輝きを放つ。

 建設途中で放棄され、錆ついたドラム缶を盾にしてしゃがむと左右を見回す。


「聞いてない……聞いてないあんなの……!」


 焦燥に駆られた口調は、カメラの先に座る視聴者へ向けてのものか。

 ひび割れた舗装路から伸びた雑草が天然の柵を形成し、蔓が放棄された家屋を包み込む。炎上の跡を残す不自然な空白は悪質な悪戯や計画頓挫の決定的な理由ではなく、堆積した落ち葉や枯れ木へ落ちた不運な落雷によるものである。

 一度死に絶えた人工的な環境は、人の手が入らねば容易に崩壊する。

 打ち捨てられた自動車は玉突き状態となり、フロントガラスには赤い液体が付着していた。そして背を預ける男の手には黒光りする殺意の具現、拳銃。

 気候は寒くも暑くもない春の陽気である。が、ヒナワの背には不快な汗が幾つも流れている。


「何あれ……拳銃なんて目じゃないじゃん……!」


 開発放棄区域に流れ込んだ犯罪者が一名。

 賞金稼ぎが扱う共同サイトに流れた情報を元に集まった人数は述べ一一名。

 如何なる拳銃を用いた所で覆すことの叶わぬ人数差は、しかして前提となる情報の不足で覆されようとしていた。


「ふざけんじゃねぇぞテメェッ!」


 自棄を含んだ怒声が響き、ヒナワは咄嗟に視線を向ける。

 そこには自動車を盾にして半身を晒し、手に握る得物を乱射する男の姿。乾いた銃声が幾度となく木霊するも、肉を貫く生々しい音は続かない。

 やがて弾丸が尽き、遊底がロックされたにも関わらず引金を引き続ける。

 玄人にあるまじき凡ミスに、少女が指摘するだけの猶予は残されていない。

 反撃とばかりに繰り出される銃声の乱舞。破滅的な音色を奏でて殺到する死の演目は、男の肉体に奇妙な演舞を躍らせ、仰向けに倒れさせる。

 流れ滴る血液の量は、万が一にも生還を期待できぬほどに。


「ッ……!」


 思わず喉から出かかった声を、口を両手で抑えて押し留めた。

 新鮮な死体はヒナワの脳裏にも鮮明な死を連想させる。

 身体中に穴を開け、冗談みたいに血を噴き出し、生気を失った瞳が虚空を捉える姿を。

 最悪を追い出すように頭を振ると、徐々に近づく足音が鼓膜を叩いた。悠々と、両腕を広げるイメージが鮮明に浮かぶような余裕を携えた足音が。


「来てる……でも多分私に気づいてじゃない……先に撃つ、それとももっと引きつけて……でも相手の武器は……」


 視聴者へ向けた声量ではなく、自問自答のために小声を呟く。

 震える手で目線の高さにまで持ち上げたのは、彼女が信を預ける得物。

 名はP二二〇といったか。主流である九ミリパラベラム弾用に最適化されてないが故に大柄な上に総弾数も七発と少なめだが、命中精度と品質には太鼓判を押された代物である。

 漆黒の遊底をなぞって高鳴る心臓を少しでも和らげようと画策するも、心中は一向に動揺を示したまま。


「撃たなきゃ……でも外したら……!」


 呼吸が乱れる。

 歯はカスタネットの如く音を鳴らし、小柄な体躯は自然と丸まることで一層縮こまる。

 とてもではないが射撃を行える精神状態を飛び越えれば、注意力も散漫となる。


「見ーつけた」

「ッ!!!」


 反射的に振り向けば、底無しの闇がヒナワへ照準を合わせていた。

 如何なる早撃ちの名手であろうとも相打ちにすら持ち込めぬ極至近距離。男は蔑んだ瞳で少女を見下ろして、人差し指へ力を込める。

 半歩でも押し込めば薬莢が排出され、弾丸が照準の先に新たな大輪の華を咲かせる刹那。


「……あれ?」


 男の手を一筋の光が通過する。

 半瞬遅れ、自身から滴る鮮血で弧を描いて宙を舞うは人差し指。僅か数秒前までは男の肉体であったはずの、肉塊が一つ。

 呆然とし、意識を手放していた少女は条件反射で光の先へと視線を注ぐ。

 陽光に反射する白刃。それを握るは少女と同じブレザーを着用した少年。風にたなびく髪は黒く、右側には一房の白が混ざっている。


「いっ……!」


 突然の出来事に男も反応が遅れたのか、今更ながら右手から走る激痛のサインに声を上げる。

 否、厳密には声が意味を持った悲鳴となるだけの猶予は与えられなかった。

 白刃を振り上げた姿勢で静止していた少年が再度動く。素早く手首をスナップさせ、腰を捻ると鋭利な刃で男の胴体を袈裟懸けに切り裂いたのだ。

 一拍後に男の身体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、追随する血飛沫が少年とヒナワを濡らす。


「な、何……?」

「……」


 辛うじて呟いた言葉に意味はなく、激変した状況にヒナワは対応できたかどうかなど以前の話。

 一方で結果的に少女を救出した形となる少年は彼女を一瞥することもなく峰を軽く叩き、血潮を落とすとゆっくりと納刀した。

 改めて突然の乱入者たる少年を眺める。

 ブレザーと一緒に着用するチェック柄のズボンもまた、ヒナワの通う高校が指定するモデルのもの。やや傾けて被っている土色のベレー帽には銃痕と血潮の痕を残し、他者に興味などないと言わんばかりの瞳とも酷似した色合いを見せる。

 そして漠然とした意識で刀と認識していた得物は小太刀程度の刃渡りを見せ、柄と鞘が湿度に敏感な白木で作られていた。


「白鞘……?」

「なんだよ。悪いか、刀で暴れちゃ?」


 思わず呟いた言葉に、少年はぶっきらぼうに返事する。

 極道ものの映画などでお目にかかるかどうかの貴重品が、拳銃所持が一般化した現代で振るわれるなどマニアであらば垂涎ものに違いない。

 しかし、現代社会に生きる女子高生が素直に認められるか否かとは別問題。


「そもそも助けられた身分で文句言ってんじゃねぇ。つか、肝心な時に撃てねぇんだったらその拳銃捨てろ。こんな場所に首を突っ込むな」

「はぁ?

 そんなの私の勝手でしょ。刀で拳銃とやり合う変人に言われたくない」


 少年は赤い視線を少女へ注ぐと、その鋭さを数段増す。

 そしてヒナワもまた、少年に譲ることなく口先を尖らせた。

 元より危険なのは百も承知。命を賭してでも為すべきことだと確信したが故の活動であり、如何に恩人と言っても見ず知らずの他人に静止を訴えられて止まるような安いものでもない。


「私は……私は自分を証明したい、笛波ヒナワという存在を証明したいの。邪魔しないでッ」


 一瞬言い淀んだものの、紡ぐ内容に抵抗はなかった。

 笛波、という苗字に覚えがあったのか、少年はオウム返しに呟く。が、すぐに眉間に皺を寄せると顔を近づけて一層の怒気を吐く言葉に乗せる。


「証明ってなんだよ、死体の綺麗さでも自慢する気かッ。そんなのに命を──!」


 続くべき字句は空中で霧散し、少年は口を閉ざす。

 近づけられた顔に負けじと睨み返すヒナワの表情を暫し見つめていると、唇が動く。音として伝わることはなかったものの、そこに何らかの意味が込められていたのは明白。

 だが、その先を問い質すよりも早く踵を返すと、少年は倒れ伏した男を掴む。


「……とにかく、コイツは俺が捕まえたんだ。コイツはこっちで頂くからな?」


 ヒナワとしても、そこにまで不満を抱いていた訳ではない。

 不詳不詳ながら首を縦に振ると、少年は俵持ちした男を運んで軽やかに走っていった。男子として決して恵まれた体躯とは言い難い中肉中背だが、軽く見積もっても六〇キロはあろう男を担いで進む姿に無理は見当たらない。

 少年が曲がり角を右折すると、その姿を追うことは叶わなくなり、ヒナワは大きく溜め息を零した。


「……何、今の態度は」


 苛立ちのままに頭へ手を伸ばし、そこで漸く彼女はライブ配信の途中であることを思い出す。

 慌てて顔の前で両手を振り、咄嗟に右手でカメラを掴む。と同時に左手は自身の口元へと寄せ、二本の指で口端を無理矢理上向きに吊り上げた。

 カメラを反転させた時、画面の先に登場したのはそんな強引な笑みを浮かべた麗しい少女の姿。


「は、はーい。こ、今回は妙な乱入があったし、そもそも情報が滅茶苦茶だったけどー……なんやかんやでいい感じに纏まりました。

 これで今日の配信は終わるね。おつなみー」


 早口で捲くし立てるとカメラの電源を落とし、配信を強引に打ち切った。

 どう足掻いても収集がつくとも思えなかった以上、止むを得ない。そう心中で言い訳すると、ヒナワはカメラのレンズを見つめる。


「はー、またグダった……」


 レンズに映る少女の瞳は、ターコイズを彷彿とさせる綺麗な水色であった。


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