第26話 八月三十一日
朝食の鮭をほじりながら、水海はぽつりと言った。
「あれ、今日死ぬのって何時だっけ?」
もっとしんみりした雰囲気を出さなくていいのか? そう言いたくなるほど、水海は最後の日になってもいつも通りだった。
「……午後二時三十分頃、との予測です」
今日、彼女は死ぬ。
「あ、そうだった! 昼ごはん食べられるじゃんってなったの思い出した。いやね、最期にカレー食べたいって言ってたのに朝ご飯カレーじゃないじゃんって今思ったんだよね」
「カレーの材料はちゃんとあるから、安心していいよ」
とても死ぬ人のテンションとは思えないが、これは強がりなのだろうか。
それとも、まだ何か秘策がある?
時間に間に合わないと困るからと、朝食後すぐにカレーを作り始めた。煮込んでいる途中いつも通りゲームしたりしてすごした。
丁度いい時間になり、二人でカレーを食べる。
「やっぱカレーって最高」
水海はいつも通りカレーを美味しそうに平らげた。大目に作ったのだが、彼女がおかわりをしたので食べきることができた。
片づけを終えるともう一時近くになってしまう。
「やばっ、一時半にはここ出なきゃいけないんだよね? シャワー浴びて着替えてくる!」
水海が死ぬ場所は軍によって決められている。時間はあくまで目安で前後する可能性があるため、早めに行って待機する手筈になっていた。
ただ、日笠の感覚では恐らく二時半ちょうどに発動する。他の能力者による分析でも同様の結果が得られているようだし、まず間違いないだろう。
風呂に入って戻ってきた水海は、いつか見た白いワンピースを着ていた。
「迷ったけどお気に入りで行くことにしたわ。どうせ処分されちゃうんだし」
それは死に装束のような白で。
心が揺れたことを自覚し、感情を喉の奥で嚙み砕いて飲み下す。
「似合ってるし良いと思う」
「ほんと? やった」
日笠も既に準備は整えてあった。服装は普段着でもいいと許可を得たので、Tシャツにデニムといつもとほぼ同じ恰好。耳に通信用のイヤホンを装着している点だけが違う。
時間が微妙に余ったので、居間でお茶を飲むことにした。乾いた喉に麦茶が良くしみる。
このあと目の前にいる人が死ぬとは思えないくらい、いつも通りの時間だ。
それでも時々、お茶が喉に詰まりそうになった。
やがて、軍の方から通信が届く。
『日笠くん、時間だ。打合せ通り移動を開始してくれ』
「……了解」
お茶の入ったグラスをテーブルに置く。そっと置いたはずが、けっこう大きな音がしてしまった。水海と目が合う。
「そろそろ移動しよう」
「おっけー。あ、もっと早くお茶片づければよかったね。洗う時間が」
「俺が後でやるから大丈夫」
「なら良かった。悪いけどよろしくね」
どうせここで使ったものは全て処分されるので洗うことに意味はないのだけど、戻ってきたら洗おうと思った。
玄関に周り、靴を履く。水海はサンダルを選んだ。
外に出ると、真っ青な空が広がっていた。今日はこの上ないくらいの快晴だ。
水海は家の方をじっと見ている。
「行こう」
その背中に声を掛けると、彼女は頷いた。
「うん。……ありがとね、ばいばい」
彼女は誰もいない家に手を振った。
水海が死ぬのは、二人の決戦の地だった。
別に因縁を回収するわけではなく、そこが前から軍の所有する土地で周りに家屋が少なく、一番文句が少なくて済むという判断によるものだった。
そこはここよりもっと山奥で、歩いていくと今の水海の体力ではたどり着けないため、所定の位置まで徒歩で向かい、そこから瞬間移動で連れて行ってもらう。
いつか夜に散歩したように、水海が先を歩き日笠がその後を追う。
「はぁ……自業自得とはいえ死ぬとなるとアンニュイな気分になる……」
「ほ、本当にそう思ってる……?」
さっきまであった日笠のアンニュイな気持ちは今ので全部消し飛んだ。
「思ってるよ! やりたいことも全然できなかったしさぁ」
「そうだね、俺のせいでごめんね」
「許してあげる。最期だしね、えへへ」
水海はスキップを踏むように歩きながら跳ねた。
「でもなんか……ずっと目標にしてきたことだけど、最近気づいたんだよね。私は、嫌いな人に消えてほしいだけだったっぽくて……なんて矮小な……」
「水海……?」
彼女は空を見上げるように顔を上げた。
「もっと自分が崇高で尊いものだと思い込んでたんだよね。人間じゃないと思ってたら案外人間だったとか、なんて陳腐なオチなんだろ。クソくだらない」
日笠は水海の言っていることがあまり理解できなかった。
「なのでもう別に、いいです。ここで終わりで」
だから掛ける言葉が見つからず、ただ彼女の後ろ姿を見つめた。
二人は所定のポイントに到達し、瞬間移動で死に場所に向かう。
かつて鬱蒼とした森の中だったはずのそこは、荒野のようになっていた。
万全の準備を整えるため、木を切り倒して切り株と草を取り除き見通しをよくしたそうだ。
『総員の退避は完了した。そのままそこで待機してくれ』
半径五十キロからはみんな避難して、ここにはもう二人だけだ。監視カメラと千里眼系の能力者が覗いているはずので、とてもそんなロマンチックな気分にはなれないが。
日笠と水海は、指示された通りの場所に立ち、距離を置いて向かい合う。
「ここ懐かしいねーって言おうとしたけど、変わり果てすぎてて全然そんな感じじゃなかったわ」
水海は辺りを見回してのんきなことを言っている。
「私のせいで申し訳ないな、木に。ごめんね」
本当に今日、彼女はここで死ぬのか?
やっぱり隠し玉があって日笠も軍も出し抜くつもりなのだろうか。逃げおおせてくれるならそれでもいい、なんて思いが一瞬頭をよぎる。だがすぐ否定した。
彼女の死に責任を持ちたかった。
だから、どんな妨害があろうと、彼女を死守しよう。
覚悟を決めつつも、あまりに暇で二人で雑談をしていると緊張感が薄れてしまう。
それでも、残り十分になると、違う緊張が迫ってきた。
雑談にうまく返せないでいると、水海が優しく笑いかけてくる。
「そうそう、言っておきたいことあったんだった。――――日笠くん、「好きな人が好きだから好き」でも、「自分のことを好きになってくれる人だから好き」も、君の、君自身の好きでいいんだよ」
「……え?」
唐突な言葉に首をかしげる。
「好きなこと探しのこと! いや、日笠くんのことだからなんか気にしてそうだなーって思っちゃってさ。植物育てるのとか、私が好きだから好きになろうとしてるのかなとか思ってない?」
「うっ」
図星だった。
水海は狼狽する日笠をじっと睨む。
「やっぱりね。日笠くん、君は真面目すぎ」
「はい……」
一応これは仲間たちに音声も聞かれているはずで、大量殺人犯から説教されているところを見られた場合は一体どういう情緒でいたらいいんだろう、と悩んだ。
「そんなに複雑に考える必要はないんだよ。本当に嫌だったら嫌だなーって思うんだし、そうじゃなかったらもう全部「楽しかったし割と好き」でいいよ」
さすがに割り切りすぎではあるが、部分的には納得できた。これまで嫌なことはちゃんと嫌だと感じられていたのだから、そう思わなかったということは嫌いではないのだ。
ゲームも漫画も動画見るのも、嫌いじゃない。水海の定義で言えば、「好き」でいいらしい。
「最初からそう思ってたんだけどはっきり言ったらそこで終わっちゃうでしょ? だからぼやかしてたんだけどさぁ」
水海は後頭部を片手で撫でる。
「前に、日笠くんは戦いから逃げたくもあったけど逃げたくもなかったんじゃない、みたいなこと私が言ったの憶えてる?」
「うん」
水海の言葉は、この選択をするための指針になったし、今も心に残っている。
「あれは半分くらい日笠くんを手なずけるためにテキトーぶっこいていましたが」
「……はい」
人生の指針、てきとうだった。
「残り半分は本当にそう思ってるから」
その瞳があまりに真摯だったので、嘘と断ずるのは躊躇われた。
彼女の本心は見え隠れして、見えていると思っている部分も偽物みたいで、日笠には何が本当か見分けられない。
「私も植物が好きとか海が好きとかって言ってもさ、そのすべてを愛せるわけでもないんだよ。毒のある植物とかはちょっと怖さもあるし、見た目がグロい花は苦手だったり」
逆に危険な植物やひどい匂いがしたりあまりかわいらしさのないような種類が好きな植物好きもいるだろう。
「海も遠くから見る分にはいいけど、津波とか溺死とかで危険だし怖いときもあるじゃん?」
それから、彼女は両手を前に差し出し、手のひらを上に向けて水を掬うときみたいなかたちにした。
「でもさぁ、手のひらにすくったちっぽけな海だけが好き、でもいいんだよ。それでも好きなことに変わりはないんだから」
その言葉で、日笠が彼女を一部分だけ好きだ、と言ったことを肯定されたような気分になるのは、あまりに都合が良すぎるだろうか。
「……全く、その通りだ」
でも、そんな都合よく解釈したっていいだろう。
「水海、俺は君のことが、一欠片だけ好きだったよ」
手のひらに掬った海なら自分も好きかもしれない、と思った。
今度行ったら試してみよう。
「ありがとう。――――私の気持ちは、日笠くんが好きなように解釈していいよ」
水海は、両手を顔の高さに挙げて掲げた。
「どれが本当の私だったと思う?」
反抗組織の一員だった彼女。
人間が嫌いだった彼女。
人を殺した彼女。
日笠には優しかった彼女。
普通の友達みたいだった彼女。
「俺は、俺が好きな水海が本当だったって思うことにするよ」
それしかできないから。
水海は答えを聞いて両手を広げた。
「それでよし! みんな変だよね。何が本当かなんて、自分でもわからないのにさ!」
日笠も、長い間自分の心が分からなかった。
今でも完全に理解できたわけではない。当たり前だけど、目に見えなのだからそんなものだろう。
「好きなこと探ししよーって言ったけど、多分元から日笠くんには好きなものがたくさんあったんだよ」
「うん、俺が気づけなかっただけでね。それに……この夏で増えたよ、好きなこと」
写真を撮るのが案外好きだと気づいた。
植物を育てるのもこれから好きになれそうだ。
それから。
「ならよかった。じゃあこれで夏休みの宿題も終わりかな」
終わりたくなかった。このままずっと、夏が終わらなければいいのに。
でも、終わらせなければいけないのだ。
「日笠くんは私に言い残したことない? なんて」
「……あるよ」
たくさんありすぎて何から言っていいかわからなかった。
でも時間は残り少ない。だから、必ず言わなければならないことを最初に言おうと思った。
「俺は、水海になにも残さず死んでって言ったよね」
「言ったね。ひどいよ」
水海はなんでもなさそうに言うが、本当にひどい言葉だと思う。
「その責任は取る。……俺も、何も残さず死ぬから、安心して」
これが日笠なりのけじめのつけ方だった。
すぐ死ぬわけではない。ただ、死ぬときには自分の痕跡を出来る限り消して死のうと思う。
ここで彼女を終わらせる以上、そのくらいしなければつり合いが取れないだろう。
「はぁ? 意味わかんな」
水海がキレたように返してきたのは想定外だった。
「そんなこと私言ってないじゃん。なんのためにそんなことすんの? ちょっとは前向きになったと思ってたのに全然変わってないじゃん!」
「そ、そうですね……」
後ろ向きな気質は急には治らないらしい。
「私が人を殺したことは日笠くんの責任じゃないよ。そんなの当たり前のことじゃん」
「……うん」
「ここで私を殺すのは『呪詛』ちゃんだよ。それを忘れないで」
「わかった」
彼女がそう望むなら、従おう。
『残りあと五分だ。十分警戒して』
通信が入って肩がこわばった。
時計を確認すると、本当にあと五分だった。
「あと何分?」
日笠の動作を見てか、水海が聞いてくる。
「五分だよ」
「そっか。……日笠くん、最後にお願いがあるんだ」
「何?」
水海は左手を前方に差し出す。
「最後に、手をつなぎたい」
その寂しそうな表情に、感情が揺り動かされる。
『日笠くん、要求を呑んではいけない。何か企んでいる可能性がある』
すぐさま通信が届く。
その可能性は高いだろう。
この立ち位置から動いてはいけない、と指示されていた。二人の距離は遠くもないが近くもなく、さすがに一歩も動かず手をつなぐことはできない。よって、どちらかから歩み寄る必要がある。
近づいたときに、何かしてくるかもしれない。
いや、水海だったら絶対やってくるに決まっている。
人を嫌う彼女が、手をつなぎたいと願うはずがないのだ。
それが分かっていても。
「……すいません、皆さん」
謝罪の言葉を口にして、日笠は一歩前へ踏み出した。
『日笠くん、何をしてるんだ。所定の位置に戻りなさい』
制止されても止まれなかった。
手をつなぐ、そんな些細な願いを、叶えてあげたいと思った。嘘だろうけど、少しは本当かもしれない。
それと同時に、自分も彼女と手をつなぎたいと思ったのだ。
無視したら絶対に後悔する。
ならば騙された方がマシだ。
それに、何を企んでいたとして、退けられる自信が日笠にはあった。
日笠は水海の前に立つ。ちょうど手が届く距離だ。
事前に彼女が不審物を持っていないことはチェック済み。拘束能力も機能しているし、あの即死技に対抗するため無効化能力の発動準備もした。何かあったらすぐに発動できる。
「……ありがとう」
そう言う彼女に右手を伸ばす。
手をつなぐというか握手のような形になってしまったのは、日笠が緊張して右手をだしてしまったからだ。
肌が触れあう。彼女の手はやわらかく、あたたかだった。
顔を覗き込んだところで、目があった。
「本当に優しいよね、日笠くんは」
吐き出された言葉の剣呑さで、やはり罠だったと悟る。
悲しいが、やっぱり彼女は最後まで何も諦めないのだなと関心した。
「やめろ水海。何をしても、俺からは逃げられないよ」
握ってくる手に力が入った。
「わかってるよ」
日笠は地面に水海を押し倒した。背中が地面に触れると彼女は痛そうに息を吐く。
彼女が能力を発動したのが、気配でわかった。
使えるのか、日笠は息をのむ。彼女の能力は、まだ壊れていてとても機能させられるものではなかったはずだ。
しかし使えたところで、日笠はそれを遮ることができる。
水海の消滅能力は、あの時波のように彼女を中心として広がっていった。即死技の可能性が高いだろうと、能力の波が発せられるのに備えた。
だが、その能力は直接日笠の内側に響いた。
予想外の指向性。これまでそんな使い方をしたのを見たことがない。
まずい、と思って対策を打とうとするが間に合わなかった。
そして――――日笠の
「えっ……」
これまであったものが体のどこかから零れ落ちるような感覚。
気が付くと、能力が発動できなくなっていた。
「よし、上手くいったみたいだね」
水海は満足そうな笑顔を浮かべる。
他人の能力を直接消去する。そんなことができるなんて想定していなかった。
これでは、水海にまんまと逃げられてしまう。
いや、男女の体格差があるから勝てるか? また無理に使ったのだろうし水海もすぐには能力が使えないはず。
とにかく他に応援を呼ばなければ。
「これで自由に生きられそう?」
耳に飛び込んできた言葉の柔らかな響きに、混乱が掻き消えた。
波打っていた心が凪いで行く。
水海は伸ばした手を、日笠の頬に近づける。指先だけ触れるように、その手を掲げた。
「日笠くん、自由に生きなよ。何か残しても、何も大層なものを残せなくてもいいからさ」
その時、呪いの紋様が光り出す。暖かな、オレンジ色の光だった。
「好きに生きて好きに死ぬ。私のできなかったこと、やってみせてよ――――地獄で待ってるから」
水海は逃げない。
そのまま、小さく笑った。
「さよなら」
そして彼女の右腕が、弾けた。
目前で肉片が飛び散り頬にべちゃっと当たる。血が左目に入る。
肉が爆ぜたあとに残った白い骨は音を立てて折れ、落下すると地で粉になった。
内部から爆破されたように、彼女の肉体は崩壊していく。
可愛かった顔は表面の肉が爆ぜて中のグロテスクな筋肉が見えた。
「あ」
悲鳴の断片のようなものが聞こえたがすぐに口も声帯もはじけ飛んだので途絶える。頭蓋骨が見えだすと眼球が地面に転がり溶けていく。
崩壊は紋様に近い場所から徐々に広がっており、胴体まで及ぶとそのたびに服が内側から持ち上がり、白くて綺麗だった服が徐々に赤で染まっていく。
肉片が飛んで、血が跳ねて、生臭いにおいで頭がいっぱいになる。
それでも、最後まで離れなかった。
脚だけになった彼女がびくびくと地面の上で跳ね、肉がこそげ筋がちぎれ骨だけになり、それも全て消え失せた。
崩壊が終わって、残されたのは、彼女の血の暖かさだけだった。
それも消えていく。血の跡も、肉も、骨も、着ていた服さえも、全てがどこかへ無くなってしまった。
通信が叫んで耳が痛い。
日笠は静かに立ち上がる。頭は熱中症みたいにぼんやりしていた。
ポケットからスマホを取り出すと地面に放り投げ、落ちたそれを踏みつけた。
ガラスが割れ破片が飛ぶ。光が反射して美しかった。
「――――さよなら」
名前は呼べない。
二人だけの夏は、ここで終わった。
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