第21話  八月十七日


 勝った。

 それが帆景襲撃事件を乗り越えた水海の感想だった。


 刺されたのは痛かったが日笠によって完璧に傷は治してもらえたので全く問題ない。寝て起きたらすっかり快調だ。昨日刺されたのが嘘のようだった。

 日笠にこの事件についてなかったことにしてほしいと言われたので了承した。そのほうが器がでかく見えていいだろうし、帆景を追及するメリットは水海にはない。


 しかし帆景が殺しに来るのは予想外だった、と水海は振り返る。

 やっぱり人間は何を考えているのかよくわからない。仲良しではあったが恋仲ではなかったようだし、わざわざリスクを犯して殺しにくるなんて想定もしていなかった。


 自分が恋愛のことをなんら理解していないだけで、普通に帆景が日笠のことを好きだっただけなのかもしれない。先に彼氏がいてもそういうこともあるだろう。

 そんな水海にとって、日笠に惚れてもらうことは最大の難事と思われたがなんとか乗り切れたようだ。

 あのまま死んでもさほど問題にはならないだろうにわざわざ助けたということは、もうそういうことだろう。


「ねぇ日笠くん、ひまわりそろそろ咲いたかな」

「あぁ、そうかも。……見に行こうか」


 証拠に、水海がねだると彼は優しく笑って応えてくれる。

 それはとても心地よい感覚だった。



 ひまわりは満開だった。

 満開って表現はなぜか桜をイメージさせるから不思議だ。花といえば桜というイメージが、古来から根付いているからなのかもしれない。


「すごい……! すごいね、日笠くん!!」


 それは演技ではなく心からの感動だった。自転車を降りてからひまわり畑に到着するまでの短い距離でも歩くのがもどかしくて走り出してしまうくらい。


「水海、そんなに慌てなくてもひまわりは逃げないって」


 日笠は飽きれたように笑った。

 ひまわり畑を突っ切りつつ、咲く花たちを眺めていく。

 草の匂いがする。

 自分より背の高いひまわりもたくさんあって、どちらかというと視界は緑色に染まった。

 ちょっと背伸びをしてひまわりの花を見つめる。近くで見すぎると茶色い部分がちょっと気色悪くて好きだ。


「ひまわりは太陽を向いて咲くってよく言うけど、たいていの植物は太陽に向かって伸びるよね。日陰を好む花もあるけどね。私、植物って好きだな。いろんな生き方とか姿があって」


 本当に好きだ。人間なんかよりずっと。

 もし世界の形を変えられるなら、人間を滅ぼしてそれと同じ数の草木を植える。元々人間なんかよりずっと個体数が多いからそんなことをする必要もないだろうけど。


 人間は、人間の形でないと許されない。

 別に好き好んでこんな心で生まれたわけではないのに、否定され、押し込めることを強要される。

 植物に生まれたかった。そうしたら何も考えなくて、ただ生きることだけに専念できる。

 もし植物にも心とか社会とかあるんだったら、その時はまた違うものになることを望むだろう。


 こんなにも生きていたいのに、生きることはつらいばかりだった。

 細い通路を真っすぐ進んでいると、少し開けた場所に出る。

 横に走る太めの通路でエリアが別れているようだ。

 この先もまだひまわり畑は続いているようで、通路の向かい側に黄色と緑の群れが見えた。

 強い風が吹いてきて、帽子が飛びそうになるのを手で押さえる。風で揺れるひまわり同士がこすれる音が耳をくすぐった。

 それが収まってから、いいタイミングだと畳みかけることにした。


「ねぇ、私が死んだらそこにひまわりを植えてくれない?」


 努めてはかなげに微笑んでみせる。

 表情のコントロールは、彼女が人間として生活を送るために身に着けた生きる手段だった。花が蜜をだして虫を寄せ付け、その種子を遠くまで飛ばそうとするように、彼女は表情と言葉を駆使して人の心に種を植え付ける。


「駄目かな。これが私の――――最後のお願い」


 そしてそれを芽吹かせるまで、丹念に面倒を見る。

 これが、願いを叶えるための彼女が知る最も有効な手段だった。

 人間の心が理解できないゆえに失敗することも多々あったが、今回は成功する。

 日笠は唇をぎゅっと引き結び、それから微笑んだ。


「水海、俺は君のことが好きだよ」


 願いが花開いた瞬間を見るのが、彼女の一番の楽しみだった。


    * * *



「でも、その願いは聞けない」


 日笠が勇気をもって思いを伝えた時、珍しく水海が驚いたように顔をこわばらせたのが分かった。


 彼女の自由なところが好きだ。

 彼女の、好きなことには真っすぐなところが好きだ。

 でも、それを踏まえて伝えなきゃいけないことがある。

 怖い。しかし言わなきゃいけない、彼女に誠実であるためには。

 そんなの自分のエゴだと知っていても。


「水海のやったことで、このあたりに住んでいた人はみんな死んでしまった。自分が死んだことにも、多分、ほとんど気づけなかっただろうね」


 彼女の能力は一瞬で多くの人の命を奪った。せめて苦しんでいなければいいと願うが真偽は知れない。


「そうやって死んでしまった人は、何も残すことを許されなかった。最後に思いを伝えたい人もいただろうし、やり遂げたかったことがあった人もいたかもしれない。果たすはずだった些細な約束も、全部、君が壊してしまった」


 好きなところもあるが、それ以上に嫌いなところがある。

 嫌いなんて軽い言葉で済ませたくないくらい、水海蛍火が行ったことを嫌悪し憎んでいる。

 彼女のやったことが全て嘘であればいいと何度思ったか分からなかった。

 でも、その経緯も歴史も含めて彼女なのだ。分離することはできないし、してはいけない。

 だから呪いを解くことはしない。


 しかしそれで、彼女の一部を好きなことを否定しなきゃいけないのか。

 嫌いな人の一部分でも、好きでいちゃいけないのか。

 そんなことはない、というのが日笠の結論だった。


 好きなところは好きと認める。

 だが、許容できない部分を許す必要はない。


「だから、君に何か残すことを俺は許さない。そのまま、何も残さず死んでくれ」


 こんなひどいことを好きな人に言いたくなかった。


 全部曖昧に包み込んで、君のすべてを愛すると言いたかった。でもそんなこと自分にはできないと悟ってしまったのだ。


 本当は死んでほしくない。救いたいという気持ちもある。

 しかし、両立して全く別の感情も持っていると、ずっと考えていて気付いた。

 これまで日笠が戦ってきたのは、最強だった彼に報いるためだ。

 それがメインであったことは間違いない。


 でも、能力犯罪者のことを許せなかったという感情も嘘ではなかったのだ。

 主体性のない日笠が、唯一自分で選んだのは組織に入ることだった。

 組織の人に積極的に勧誘されたことも影響しているだろう。でもそれだけじゃない。


 悪いことをした人には報いを受けてほしい。

 あるいは、悪い人のせいで困る人がいるなら救いたい。


 それだけは、多分、本当のことだった。

 自分のそんな思いに気付けたのは、奇しくも水海の言葉がきっかけだった。

 逃げたかったけど、逃げたくないのも嘘じゃなかった。

 そして日笠は、最終戦で水海の行動を許したのは自分の責任だと感じている。止められたら、ここには昔から住んでいた人たちが、今も変わらず生き続けていたはずだ。それが悔しくてしょうがない。

 だからここでとどめを刺す。あの時果たせなかった責任を、今こそ取り返したいのだ。


 最後まで戦っていたい。これは夏休みではなく戦争で、ここはノスタルジックな田舎ではなく牢獄だった。

 しばらくの沈黙の後、彼女は帽子のつばを下に向けて顔を隠した。


「……そっか。わかった」


 そして分かってしまっている。

 水海は日笠のことが好きではない。というより、人間に対してそんな感情を持たないんじゃないだろうか、と。

 人間を全員殺そうとした人が、たまたま都合よく自分のことだけを好きになるだろうか? 


 それは幻想だ。

 思い返せば彼女の態度には最初から違和感がある。水海は目的を達成するために生きていて、それを阻害したのだから日笠を恨んでいて当然だ。でもその様子が一切無かった。

 ならばほかに目的があって、優しくしてくれていただけなのだろう。恐らく解呪だとか逃亡だとかを支援してもらおうとかいう目論見があったのではないか。

 そして、好きなことに対してまっすぐな彼女なら、今も目的を諦めていないに違いない。

 彼女が日笠に親しくしてくれるのは、好意ではなく打算だ。


 それが分かっていても、彼女の笑顔のまぶしさが、目に焼き付いて離れない。

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