第3話 七月二十日(2)

 食べ終わって食器を片づけると、お茶を淹れて縁側でのんびり食休みした。


 普段二人は居間を中心に生活している。居間は縁側につながっていて、そこから庭が見えた。そんなに手入れをしているわけではないし、他に見えるのは畑と空くらいなので別に景色が綺麗なわけではないが、ぼんやりするのには丁度いい風景だった。

 あとこの家で一番風が通って涼しいのがここなので、自然と集まるようになったという事情もある。古い家なのでクーラーはついておらず、扇風機だけが頼りだ。


 田舎のおばあちゃん家ってこんな感じなのかな、とふと思う。日笠には田舎に住む親類はいないので想像でしかないが。

 瓦屋根の古い平屋、縁側とそこから見える穏やかな庭と物干し台にかかる洗濯物。真っ青な空と広がる田畑。風が吹き抜けると、草がざわざわとした音を立てる。


 ここにいると、まるで夏休みの一ページみたいだと思う。

 ぼうっとしていると、麦茶を煽ってから水海が口を開いた。


「うーん……留置所にいた時にも思ってたんだけど、日笠くん、一つ提案があります」

「なんでしょう」

「好きなもの作らない?」


 彼女が発した言葉の意味を掴みかねた。


「料理の話?」

「いや、全般的に。日笠くんって、何か一つでも好きなものある?」


 そう言われて心が揺れた。

 水海に言及されたことは、日笠にとって長年の悩みだった。

 嫌いなものはあるけど、胸を張って好きだと言えるものはない。

 食べ物も趣味も、世間話で尋ねられたら適当に答えられるように用意してある。聞かれたときに「好きなものってないんだよねー」と言うと場がしらけるからだ。

 しかし、本当に心から好きだと主張できるものは何もなかった。


「……そうだね、無いかも」

「それでも全然いいと思うんだけど、寂しくないのかなと思って」


 水海は日笠の顔をのぞき込んでくる。


「勿論好きなものなんて何もなくても生きていけるけど――――せっかくなら私達で一緒に何か探してみるのはどうかと思ったんだ。夏休みの自由研究、みたいなさ」


 それは日笠にとっては嬉しい申し出だった。

 好きなものがない。というかどうも自意識が薄弱すぎるように感じることがこれまでの人生では多かった。

 他人に合わせて生きてきた。それが悪いことだとは思わない。実際そうすることで円滑に進んできたのだ。

 でも、全てから解放された後やることもなくこうして彼女と過ごしていると、自分には何もないと感じるようになってしまった。暇すぎて、今まで目をそらしてきたことが浮き彫りになる。


「一緒に探してくれるなら嬉しい……けど、好きなことってどうやって探したり作ったりしたらいいの?」


 日笠は素朴な疑問を口に出す。


「いや……それは私も知らないが?」


 さっそく暗礁に乗り上げた。出航前に頓挫しているようなものでさすがに早すぎる。

 日笠のもうダメかもなみたいな表情を見た水海が、慌てたように両手をばたばた動かす。


「ま、まずは普段やってることを見直すのはどう? 自分で気づいてないだけで実は割と好きなことあるかもよ! それを深堀していくとかさ」

「それは一理あるな」


 幸運の青い鳥は実は自宅にいました、みたいなやつだ。探しているのが青い鳥だからなんで出かける前に気付かないんだよと思うだけで、目に見えない「好きなこと」だったら実は既に存在していて気付かないだけ、というのも十分あり得るだろう。


「いつも結構二人でゲームするじゃん。私に付き合ってくれてるんだろうけど、ゲームは好きじゃないの?」


 日笠たちはこの家でほぼ二人きりで生活している。それ以前は国営軍の施設に収容されていたのだが、室内から出られずやることもなかったので、毎日二人でゲームして遊んでいた。


「ゲーム、好きだと思うよ。でも……なんつったらいいかな。そう、一人だとやらないなって」


 水海が「ゲームやろう」と促してくれれば嬉しいしやっていると勿論楽しい。だが、一人でいる時に積極的にやろうと思ったことはない。留置施設にいたときはあまりに暇すぎてやることもあったが、逆に言えばそこまでじゃないとする気になれないのだ。

 本当のゲーム好きだったら「続きを早くやりたい」とウズウズするのではないかと思うが、日笠にはそれがなかった。せいぜい暇だから「じゃあやるか」と始めるくらい。


「確かに私が誘わないとやってない感じあるよねー……え、ほんとは嫌だったりする?」

「まさか。楽しくなきゃさすがに断るよ」

「なら良かった!」

「あと水海がやってるの見るのも好き」

「あー……私一人でよくマイクラとかやらせてもらってますもんね」


 なぜか水海は照れたようなしぐさをみせる。


「なるほど。日笠くんにとって純粋な意味での『好き』ではないかもってことか」


 気を取り直した彼女の表現は的確だった。


「そう、そうなんだよ……いやね、だったら純粋な好きってなんだろって話になるかもなんだけど」

「うんうん、分かるよ。日笠くんが単独で、誰の意志が介在しなくても好きと言えるものが見つかるのが一番いいよね」


 友達が好きだから好きというのは、本当の好きではないと感じていた。

 なるべくなら心から『自分が』好きだと言えるものが見つかるのが望ましい。


「理解した。なるほどねー……難しいですねそれ」

「申し訳ない……」


 自分でも思う。これが無理難題だと分かっている。


「気にしないでよ、ゆっくりやってこうぜ」


 そしてひとまず、日笠が好きそうなことを水海が片っ端から上げていってくれることになった。


「動画見るのとかは? これは結構一人でも見てたよね」

「あー……暇つぶしにゲーム実況とか大食いのやつとか見てたけど……暇じゃなかったら見ないかな」

「なるほど。映画とかもそうだよね」

「漫画とかもね。暇だったら見るし勧められたら見るし、楽しいんだけどね」

「勉強は? 結構頑張ってたじゃん」

「勉強は、しなきゃいけないものじゃん?」

「料理とかはいつもやってるけど好きじゃないの?」

「えー……義務感?」

「……なんかごめんね」


 答弁を経て、あらためて落ち込んできた。

 日笠の生活は、他人からの推薦か暇つぶしか義務感で成り立っている。

 振り返ると自分の答えがネガティブすぎて嫌になってきた。


「……なんていうか、俺、主体性がない……よな」

「いやー、でもよくいるんじゃない? そんな強烈な趣味とか嗜好を持っていることの方が案外少ないかもよ」


 そうなのかもしれない。好きの度合を計測することができないのだから、日笠が「それほど好きじゃない」と思っていることでも他人から見れば十分好きの範疇、というのもありうるだろう。

 でも、それにしても自分が無さすぎる気がするので、どうにかなるならしたい。


「思ったけど、日笠くんは友達のこと大好きなんだね。それも好きなことって言えるんじゃない? 『人と交流すること』が好き」

「……でもそれは、もしかしたら『俺のことを好きになってくれる人と交流するのが好き』、なだけかも」


 人間が全員好きかと言われたらそうではない。

 ただ、自分のことを好きになってくれたから友達のことを好きなだけなのでは? そして嫌われないために、彼らの好きなことに合わせようとしているだけなのではないか。


「すごいネガティブ思考……」


 正直に気持ちを露わにしてみると、水海はドン引きしていた。


「別にそれ普通のことじゃない? 好かれるのが嬉しいってかなり普遍的な感情だと思うし」

「ま、まぁ、そうかもね……」


 ドン引きされたことで動揺してしまい相槌を打つことしかできなかった。


「でも日笠くんがそう思うなら、もっと純粋に日笠くんが好きなものを探さなきゃ駄目だなー。ふんふん、無理難題」


 水海はなぜかちょっと嬉しそうに頷いた。


「えっと、逆に水海は何か、好きなものってある?」

「うーん、めっちゃあるなー」


 逆に困ったような表情で、彼女は腕を組んで考え込む姿勢をとる。


「私はゲームするのも漫画読むのも好きだしー、料理も嫌いじゃないよ? あ、あと動物のかわいい動画見たり植物図鑑見たりするのも好き。植物はけっこー好きかな、前は植木鉢で花を育てたりしてて……」


 そこで水海は縁側のむこうに目をやって言葉を止めた。

 育てていた植物が今も自宅にあったとして、それはもう枯れてしまっているだろう。

 想像でしかないが、彼女は今、その植物たちに思いをはせているのかもしれない。

 その姿はなんだかまぶしく見えた。


「……水海はすごいな、好きなものたくさんあって」


 日笠が声を掛けると、気を取り直したようにこちらに笑顔をむけてきた。


「んふふ、でしょう。いや全然すごくないよ。多いからすごいってもんでもないだろうし」


 それはそうだが、やはり日笠から見るとすごく感じる。

 何か特別に、特別じゃなくてもさらっと好きだと言えるものがあるなんてうらやましい。


「きっと日笠くんは好きの水準が高いんじゃないかな? 私が普通に好き、と思ってるものでも、日笠くんは『そのくらいじゃ好きとは言えない』と思っているとか」

「その可能性もあるんだよね。俺が「好き」を大袈裟に考えすぎなのかも、とは思う」


 しかし他人の心と直接比較することはできないのでなんとも言えない。


「でも日笠くん自身が納得できないなら、好きの水準を満たすようなものを見つけるしかないね」

「あるかなぁ……」

「あるって!」


 水海は急に立ち上がり、縁側のそばに置いてあったサンダルを履き、庭に飛び出した。


「例えばなんか絵を描いたり創作活動するとか」


 彼女はふらふら庭を歩き回ったあと、足先を使って地面に絵を描くしぐさをする。


「すごい好きな食べ物見つけるとかもいいよね、全国各地を食べ歩きとかも楽しそう」


 候補を指折り数えながら、なぜかその場でくるくる回る。日差しがきついから外は暑いだろうに、彼女の顔はすがすがしいものだった。


「旅行とかスポーツとかも好きな人多いよ。マニアックな趣味を楽しんでいる人もいっぱいいるし、なんなら世界で日笠くんしか好きじゃないものを見つけてもいいんだから。好きな事象でも概念でもいいんだよ、あとは――――」


 回転を止めた彼女と目があった。


「恋をする、とか」


 それから顔が優しく緩んでいく。その微笑みはいつもと雰囲気が違う気がして、日笠は胸の奥が締まったような感覚をおぼえた。


「……まぁ今は私しかいないから無理だけどね!」


 あっけらかんと彼女は付け加える。


「それによく考えたら他者から好意を向けられなきゃいけないから駄目だな、恋は。さっきの『自分に好意を向けてくれるから好きなだけかも』っていう懸念点が一生解消されない」


 真面目な顔でそうつぶやく水海はなんだかおかしかった。


「……ここで出来ることを探していくしかないな」


 先程の発言は冗談としても、あと一か月半近くこの場所で生活しなければならないのだから、まずは出来る範囲のことを試すのがいいだろう。


 もしそれで見つからなかったら、彼女が死んだ後でこれまで出来なかったことを試せばいい。


「だね! ここで出来ることかぁ……この辺マジなんもないけど何が出来るかね」


 日笠もサンダルを履いて庭に出る。太陽がまぶしく感じた。置きっぱなしになっていたゴム製のサンダルがぽかぽかしている。

 はやくも出来ることを考え始めている水海に、日笠は尋ねた。


「なぁ、なんで俺のためにそんなに考えてくれるんだ? 俺達は敵同士だし、今は――――」


 水海は『敵だった』と称したが、今でも敵だと日笠は思う。

 正直、今目の前に立つ少女についてそれほど強い憎しみを抱いてはいない。一か月半ほど一緒に過ごしてきて、慣れてきたのもあるだろう。

 だが、敵としての『水海蛍火みずうみけいか』は憎い存在のままだ。


「看守と囚人の関係なのに?」


 言葉を選びかねていると水海が繋いでくれた。

 かつて水海と日笠は敵同士だった。そうやって彼女が過去形にしたのは、その戦いが終わったからだ。


 水海の所属する犯罪組織を、日笠たち国営軍側の組織が壊滅させたのが一か月半前。その時に犯罪組織の関係者はほとんど逮捕されており、水海もそこに含まれている。 

 彼女たちの計画を日笠は何度も阻み、その進路に立ちふさがってきた。

 そして今は、水海が問題を起こさないよう見張る立場にある。


 一か月半後の八月末に彼女が呪い殺されるまで、日笠がここで監視する予定だ。

 看守に媚びを売るのは理解できなくもない。管理を甘くしたり物資を都合したりと便宜を図ってくれたりするかもしれないし、もしかしたら脱走なんかに加担してもらえる可能性もあるだろう。


 しかしそれにしては、好きなこと探しに協力するという方法は回りくどいような気もする。日笠に好かれたければもっと直接的な方法があるだろうに彼女はそれを取っていない。


 風が吹いてきて、水海はなびく髪を両手で抑えた。その右手に刻まれている茨のような模様。それは彼女をむしばむ呪いそのものだった。

 水海から日笠へのやさしさは中途半端な気がして、そうする理由が彼には思いつかなかった。

 彼女はにっと笑う。


「暇だから!」


 その単純な答えに、体から力が抜けていった。


「最後の夏休みだけどやることないし。だらだらしててもしょうがないから、日笠くんに付き合って暇が潰せたらいいなって。もっとくだらないことをしてもいいけど、達成感も欲しいじゃん?」


 水海は楽しそうにそう言った。

 本当かどうか判別する術がないが、その理由なら信じられる気がする。


「なるほど、そっか……じゃあ暇つぶしにやってみるか」


 そのくらい緩いノリで取り組んだ方がきっといい。

 彼女と過ごす最後の夏。

 彼は自分の好きなこと探しに挑む。

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