色欲の章① 弟子、一人目
「スピカ! シアン! 心配かけてごめんなさい!」
宿屋に戻ってきたリーナは、二人に向けて大きく頭を下げて謝罪した。
「まったくよ! どれだけ心配したと思ってるの!」
「戻ってきてくれてよかったよぉ~」
「うん……ごめんね。ありがとう」
三人は涙目になりながら抱きしめ合う。
血のつながりはない。
だが、確かな絆が彼女たちの間には芽生えている。
共に過ごした時間が彼女たちの心を繋ぎ、まるで三姉妹のように見える。
俺と隣で見ていたロール姫は、同じ感想を抱く。
「素敵な後継だね」
「ああ」
「あなたも混ざってみたら?」
「それは無粋だろ」
彼女たち三人が抱きしめ合っているからこそ、美しい光景に見える。
あの中に俺が混ざったら台なしだ。
こうして見ているだけで十分に満たされる。
三人の意識が互いに向いているうちに、俺はロール姫に呟く。
「助かったよ」
「何が?」
「アルダート公爵のこと。俺一人じゃここまで上手く回らなかった」
「そうかな? ボクがいなくても、結局君なら解決していたと思うけど」
彼女はクスリと笑いながらそう言った。
解決は、できたかもしれない。
でも、ここまで順調でスマートな結果にはならなかったはずだ。
相手は権力のある貴族で、俺は田舎の賢者もどき。
物理的な力による解決ならできるけど、立場が絡むと非常に面倒だ。
「お前がいてくれてよかったよ」
「あなたが素直にそういうなんて珍しい」
「俺はいつも素直だぞ」
「そう? だったら今夜が楽しみね」
王子のフリをしながら、時折見せる女性らしさにドキッとさせられる。
これは……今夜も眠れない気がするな。
「勘弁してくれ。これでも歩き回って疲れているんだ」
「ボクだって同じだよ? 誰かさんが必死だから、ボクも頑張ってあげたのに、ご褒美もないの?」
「ご褒美って……何が望みだ?」
「そうだなー……じゃあ、耳貸して?」
ひょいひょいと右手で手招きされる。
あまりいい予感はしないが、彼女のおかげでリーナを助けられたことは事実だ。
呪具の回収とは関係ないことで働いてもらったし、その分の対価を支払うことに躊躇はない。
もちろん、内容によりけりだが……。
俺は小さくため息をこぼし、彼女に耳を向ける。
「なんだ?」
「ボクからのお願いは――」
彼女は俺の耳元に口を近づける。
耳元で囁かれるのは初めてで、少しだけドキッとしてしまうが表情には出さない。
これも煩悩の一つだ。
冷静に、彼女の言葉に耳を傾けて。
「――は?」
思わず驚いてしまった。
彼女は俺の耳から顔を遠ざけ、悪戯な笑みを見せる。
「いいアイデアでしょ?」
「……いや、アイデアというか。それでいいのか?」
「うん。今後のためにも必要だと思うから」
「……」
彼女からのお願いが予想外過ぎて、俺は耳を疑った。
てっきりまた、俺をからかうような要求をしてくると思って、身構えていたのに。
「わかった。でも彼女次第だぞ?」
「大丈夫だよ。たぶん、言った通りになると思うから」
「……どうだか」
「ふふっ、もっと別の要求のほうがよかったかな?」
「そんなわけないだろ」
「素直じゃないな」
そんなやり取りをして、今夜はこの街で一泊し、明日の朝に出発することにした。
みんなアルダート公爵の不祥事について調べるため、街中を走り回って疲れている。
俺も、疲れはあるが眠れない。
いつもとは違う理由で。
トントン、と。
扉をノックする音が聞こえる。
「――あの、先生、起きてますか?」
「ああ、入っておいで」
「お、お邪魔します」
部屋の扉を開けて姿を見せたのは、寝間着姿のリーナだった。
彼女はもじもじして申し訳なさそうに入室する。
「すみません……こんな夜遅くに」
「いや、気にしなくていい。眠れないんだろ?」
「はい」
リーナは部屋の中を見回す。
そして尋ねる。
「ロール殿下は、今夜は別室なんです、よね?」
「ああ。偶には別々で、広い部屋を一人で使いたいそうだ」
「そうですよね。殿下は王城で、もっと広い部屋で暮らされていたはずですし、こういう場所は慣れないでしょうね」
「……そうだな」
実際は全然違う理由だけどな。
俺は小さくため息をこぼす。
急遽もう一つ部屋を取って、別室に移動するときのロール姫を思い出して。
◆◆◆
「今夜は一緒に眠れなくて残念だね?」
「……」
「大丈夫だよ? 明日からはちゃんと一緒に寝てあげるから」
「……」
「そんなに不貞腐れないの。あとにも先にも、ボクと一緒のベッドで眠れる男なんて、君一人だけなんだから」
「いいからさっさと出て行け!」
いつまでも煽り続けるロール姫にイラっときて、俺は彼女を無理やり部屋の外に出そうと背中を押す。
「もう、乱暴だなぁ。寂しくないの?」
「全然! そもそもそっちが言い出したことだろ? 寂しいのはそっちじゃないのか?」
「うん、寂しいよ」
「――!」
こいつ、こういう時だけ素直な空気で即答しやがって。
「君の隣は安心するからね。できれば一日でも手放したくないけど……今夜は特別」
「……」
「しっかりやりなよ。お師匠様」
「言われなくてもそうするよ。ありがとな」
「お礼はまた今度、とびきりのを期待してるよ」
そう言って彼女は笑い、俺に部屋を明け渡した。
◆◆◆
ロール姫はこうなることを予測していた。
俺とリーナは示し合わせたわけでも、約束していたわけでもない。
俺が一人部屋になれば、きっと彼女は訪ねてくる。
不安で怖いことが起こった日の夜は、心細くなるものだから。
ちゃんと師匠として、弟子を支えてあげて。
今夜はリーナのお願いを、なんでも聞いてあげるんだよ。
と、いうのがロール姫が俺に願ったことだった。
「はぁ……」
「あ、あの、ご迷惑でしたか」
「違うよ。懐かしいなと思っただけだ」
「え?」
「お前が道場にきたばかりの頃は、俺とお前の二人だけだっただろ?」
「そうでしたね。その後にシアンとスピカが一緒になって、今はロール殿下も一緒にいますから」
彼女は俺が最初に広い、弟子とした女の子だ。
三人の評価や関係に優劣はない。
それでも、多少の特別は感じている。
「あの日……屋敷から逃げ出して、もうどうにでもなれって思っていました。でも、勇気を出してよかったって、今は思います」
「そうか。大変だったろう?」
「はい……先生、私の話……聞いてくれますか?」
「ああ、もちろん。今夜の俺は、お前の願いをなんでも聞くことになってるから」
そうでなくても、弟子の相談事は師匠として聞くのは当然だ。
彼女は俺と同じベッドに座る。
そうして語られるのは、彼女が生まれてどんな人生を歩んできたのか。
俺と出会う前の……知らない彼女の一面だ。
それはとても辛くて、苦しくて、逃げ出したくなる気持ちがよくわかる。
「辛かったね」
「……はい」
「よく耐えていたよ。もっと早く逃げ出しても、誰も責めなかっただろう」
「勇気が……なかっただけです。あの屋敷を出ても、自分には何もできないからって」
「そうか。でも今は違うだろ?」
「はい!」
アルダート公爵家の彼女は無力だった。
立場も、権威も、実力もない。
虐げられ続け、反抗する意思すら生まれないほどの弱者だった。
しかし今は違う。
俺の下で修業し、彼女は強くなった。
煩悩とはすなわち、己の心の弱さの一部でもある。
煩悩を一つ克服することで人は弱さを克服し、一歩ずつだが成長できる。
彼女はまだまだ未熟だ。
俺と同じ領域に達するには、きっと何年もかかるだろう。
「これまでの経験を全て自分の糧にするんだ。今日のことも、お前は一人で立ち向かう選択をした。それが正しいかどうかは別として、お前は成長している」
「成長……できていますか?」
「ああ、強くなっているよ。心も、身体も。魔術に限らず、やれることが増えただろう? 料理なんて、俺より何倍も美味く作れる。それも一つの成長だ」
「それは、先生やみんなが美味しいって言ってくれるからです」
彼女は嬉しそうに、少し照れくさそうに微笑む。
大賢者が残した教えは、魔術師としての成長だけではなく、人としての成長も促す。
わかっているのだろう。
魔術師も、どこにでもいる人間の中に一人だと。
魔術師とは、魔術を扱う人間のことだ。
ならば必然、人間としての成長が、魔術師としての成長にも直結する。
当たり前のことが、多くの者が忘れてしまう。
魔術は強くて、万能で、他者より優れていると勘違いしてしまうから。
「これからも精進するといい。俺たち共に歩むなら、きっとお前はもっと強くなれる」
「はい! 私もいつか、先生みたいに強くなります!」
「いい心がけだ。俺も、お前が強くなれるように支えよう。俺の前では弱さを見せてもいい。師弟だからな」
「ありがとうございます。じゃあその……一つ、お願いを聞いて頂けませんか?」
彼女はもじもじしながら尋ねてくる。
「構わない。今夜の俺は、なんでも聞こう」
「……い、一緒に寝てくれませんか?」
「……」
んん?
これは予想外の提案だ!
「やっぱりまだ不安で……この街にいると、嫌なことばかり思い出してしまって……」
「……わかった。今夜だけ、お前が寝るまで傍にいよう」
「――! ありがとうございます!」
「……ふっ」
今夜の寝不足理由はリーナか。
まったく呆れるよ。
リーナにじゃない。
こうなると予想していたロール姫に。
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