DayX3 真実の日

 全て思い出した。


 自分の持つ全ての記憶も、自分が何者であるかも、自分の名も。


 ニールは自分の右手を見つめた。


 自分はここにいる。体に魔力が巡る感覚もある。


 全てが元に戻ったのだ。


 一つ息をつくと、ニールは神子に向き直った。


「あんたに聞きたいことがある。……どうして俺はここにいられる?」


 自分の記憶は戻った。だが、聞かねばならないことが二つある。


 一つは立場だ。彼は特別高い地位や立場を得ているわけではない。おまけに、今はエルフの国を出、人間の国で暮らしている。そんな庶民以下の人間が、国の中で最も神聖な場所に足を踏み入れ――エルフで最も神聖な存在と直接会えるなどあり得ない。


「あんたの治療を受けられるほど、俺は国になにかしてやったわけじゃない」

「いいえ」


 ライネの神子ははっきりと首を横に振る。


「治療に値するほどの対価を、私はすでにいただいております」

「対価……?」


 ニールは眉を寄せた。


 ライネの神子と顔を合わせたのは今回が初めてだ。それに、自分の人生の中で他人に特別何かをしてやった記憶もない。この場所にいられる権利を持つようなことであればなおさらだ。


 ライネの神子は穏やかに微笑み、杖から手を離す。その瞬間、長杖は景色に溶け込むように姿を消した。


「この場所と外界を遮る結界を覚えていますか?」

「ああ……」


 まだ自我が曖昧だった頃、そんなものを目にした覚えがある。ずいぶんと旧い言葉が刻まれているものだった。あの魔法を維持するには、人ひとりの魔力では到底補えない。自分であれば絶対に扱うことはできない……というより、魔力の負担が大きすぎて扱う気にはならない魔法だ、と思った。


「その結界を構成する魔法式は、あなたの造ったものが元になっているのですよ」

「は……?」


 ニールは目を見張った。身に覚えがない。


 疑うように神子の顔を窺うが、彼女はにこやかに微笑するのみだった。相変わらず嘘や偽りの色は感じられない。今更神子に対して疑いを持つこと自体が無意味なのだが。


「俺とあんたは、この件ではじめて顔を合わせたよな」

「ええ」


 ニールは腕を組む。自分が考えた魔法式を誰かに渡したり、商売に使ったりしたことはない。紛失したこともない。誰かが盗み見て覚えるにしても、何かに書き写すにしても、骨の折れる作業だ。


 それに、他人の魔法式を盗むのならば、手柄だって横取りするだろう。

 神子を守るための結界なら、相当な見返りが期待できる。他人が横流ししたとして……大層な見返りすらいらないとなれば、そいつは本当に無欲のお人好しなのか、あるいは自分に恩を売るつもりか。


 ニールがそう思い至った時、彼の背筋に悪寒のような不快感が走る。

 渋面だった彼の眉がぴくりと動いた。脳裏にひとりのエルフの姿が浮かんだせいだ。

 否定したかったが、考えれば考えるほど脳に浮かんだ仮説が現実味を帯びてくる。奇妙な笑い声が耳にこびりつく呪い付きで。


 ニールは腹の底からため息をついた。


「……アラキナか。俺の魔法式をここに流したのは」

「ええ」


 今だけは、ライネの神子の凜とした声を聞きたくなかった。


 アラキナ・ダンズ。ニールが今いる村の責任者かつ、行き場がなかった少年の彼に魔法を教えた老婆の名である。


 そういえば一度だけ、素人にしては出来がいいだとかサンプルになるとか言ったまま返ってこなかった魔法式の束があった。

 使う魔力を一切考慮しないで、対象を守ることだけを考えたもの。結局、理論でいくら高度な魔法を編み込んだとて、使えなければ机上の空論に過ぎない。完成はさせたが失敗作だった。


 彼にとってはゴミ同然のそれが、いつの間にか国で最も重要な場所を守るための魔法式の元として使われている。……おまけにこの魔法式を編んだ原動力すら神子には見透かされていたような気がしたが、そこは忘れるようにした。


 胸の奥でざわつく気恥ずかしさを無理矢理押し込めるように、ニールはわざとらしく咳払いをした。


 ……もう一つの質問は、尋ねるまでもなさそうだ。


「俺がここに飛ばされたのも……、俺が死ななかったのも、アラキナの魔法のせいなんだな」


 あの日――人間の国で暮らし初めてしばらく経った後、自分は魔力が底を尽きたせいで、それこそ死ぬように意識が落ちたはずだ。


 そうなってしまえばもう助からない。普通であれば。しかし、アラキナというエルフは普通ではなかった。

 人間の思う魔女という存在をそのまま体現したような老婆である。魔力量、根回し、予知予測……。

 長らくアラキナを知るニールから見ても、とにかく不明瞭な点が多い人物だ。


「ええ。事前に連絡はいただいていましたから」


 ニールはもう一度ため息をついた。それと共に、奇妙な脱力感に襲われた。


 死にかけていた命を老婆の緻密な根回しによって救われた――。これ以上ないくらいの大恩を押しつけられたのだ。帰ったら一体どんな生活になるのか――考えなくても気が重い。ニールは眉を寄せたが、やがて諦めたように頭を振った。


 改めて顔を上げ、ライネの神子に向き合う。


「世話になった。治療してくれたこと、感謝する」


 その言葉に、神子は確かに頷いた。


「……それと、あんたに直接会えてよかった」


 リタが連れ去られたあの日以降、ニールはライネの神子という存在に複雑な思いを抱えていた。

 決して神子本人が起こした事件でないと分かっていても、心のどこかでそれを受け入れられない。

 ライネや神子という存在を耳にするたび、彼の心に突き刺すような不快感が走った時期もあった。


 しかし、実際のライネの神子は遥かに清く強い存在だった。


 それに、ニールとしての記憶が戻ったところで、空っぽだった時の記憶や感情が消えるわけではない。あの時、先入観がない状態で見たライネの神子は好ましい存在だった。神子という役職にふさわしいだろうとも思った。


 神子はニールの言葉ににこやかに微笑んだ。その時、ふっと冷たい風が吹く。あたたかい空間にはそぐわない冷たいものだった。


「……そろそろ時間ですね」


 ライネの神子ははっきりと告げると、右手を前方へ翳す。そこへ、先ほど手にしていた樹の長杖が現れた。


「今から貴方をミスルトーの入り口までお送りします」

「頼んだ」


 ふっと神子が息を吸うと、ニールの足下に魔方陣が浮かび上がる。


 礼は伝えた。言うべきことも言った。もうここに留まる理由はない。元々、自分はこの空間には不要の存在なのだから。


「この場所で過ごした時間は、あなたにとってわずかかと思いますが……。あの日から、およそ二年が経っています」

「二年……」


 耳に飛び込んできた言葉に、ニールは驚いた。


 ライネの神子の――この世で最も強い魔力の持ち主が施す魔法でも、それほどに長い時間を要するのか。

 こんな、外界ではあり得ぬような生命力に満ちた場所でも。


 複雑な表情を浮かべるニールへ、神子は穏やかに微笑んだ。


「あなたは必要とされている。私は、そう思います」


 ライネの神子は力強く言葉を紡ぐ。戸惑いと逡巡のさなかにいる彼の背中を押すように。


 神子が杖に力を込め、わずかに旧い言葉を呟く。魔力の流れに呼応するように、足下の光が強まった。


「どうかお元気で。あなた達の幸福を、心より祈っております」


 やわらかな声を最後に、ニールの周囲は真っ白な光に包まれた。

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