DayX1 ライネ

 彼はその日、弾かれたように目を覚ました。


 ばくばくと脈打つ心臓を右手で押さえ、荒い呼吸を繰り返す。しばらく呼吸は整わず、酸欠で意識がわずか朦朧とした。


 夢と現実の境目が曖昧になり、夢の景色が瞼の奥に何度も何度も蘇ってくる。そのたびに冷や汗が頬を伝った。息苦しさに何度か咳き込んだ。


 荒い呼吸で肩を上下させながら、苦し紛れに彼は自嘲する。


「……馬鹿だな、俺は」


 あれは夢じゃない。

 自分の記憶だった。


 今まで見ていた夢だってそうだ。

 自分と無関係なものだと思い込んでいただけで。


 今であれば思い出せる。

 夢で自分に関わった人物の名前も、あの記憶がいつの時かも。あの夢の直後、自分もリタも死なずにすんで、例の老婆と共に国を出た事も。

 はっきりと覚えている。


 彼はハンモックを降りる。自分の足下に濃い影が落ちた。穏やかな風に吹かれながら目を伏せる。生き生きとした植物の生命、ひどく透き通った空間――そこに根を張るような、強い魔力の気配を読む。


 その魔力を辿るように、彼は一歩踏み出した。迷いはなかった。


 清浄な空気を肺に取り込み、普段より落ち着いた呼吸を繰り返す。それだけで、体の中の淀みが外へ出て行くようだった。


 ここの空気は澄んでいる。

 当たり前だ。この世の不浄と縁遠い場所だから。


 ここの緑は生命力に満ちている。

 当たり前だ、そういう場所なのだから。


 この空間の中で生きながら、彼は魔力の波動を辿ってゆく。



 彼がたどり着いたのは、立派な大木が目立つ広場だった。


 樹齢千年は軽く超えるであろうその樹木は、幾重もの枝を広げ、そこに居座る。根は深く太く、土からはみ出た部分からは強い生命力を感じさせた。地上に住む以上、その全貌を識ることは適わないだろう。


 生命の始まりをも予感させるような存在感に、彼は思わず息を飲んだ。これほど巨大で、それでいて命の輝きを失わない植物は見たことがない。


 ……ここが神聖である理由の一つは、この大木も関係しているのかもしれない。


 音もなく息を吐き、彼は改めて前を向く。そこには、身長と変わらぬ樹の長杖を手にした人物がひとり。先端に埋め込まれた翠玉色の石がきらりと輝く。彼女は大木を静かに見上げていた。


「全て思い出したのですね」


 鈴の音が、意思の声が、確かに響く。


 彼は返答にわずかに迷った。伝えるべき言葉はすぐに浮かんできたが、なにからどう話すべきか――そして、どういう態度で接するべきか迷ったからだ。


 しばらくして、彼は諦めたように頭を振る。今更悩んだところで仕方ない。


「全部じゃない。けど、あんたが何者かは分かる」


 彼女はなにも言わなかった。目を伏せ、沈黙する。彼が心に思い浮かべていた疑問を肯定するように。


 彼には分かっていた。彼女こそが本来のエルフの神子であることを。


 ライネという名はこの土地の名で、彼女の名前ではないことも。神子は神子になった瞬間、自分の名を失す。


 だから初めて会ったあの日、彼女は言ったのだ。呼ぶ名が必要であれば、ライネと呼んでと。


 ライネの神子はそっと笑みを浮かべると、手にした杖を静かに降った。周りの気の流れがわずかに揺らぐ。


「もう間もなく、全てが終わります。全ての終わりとして魔法を解くと共に、あなたに一番大切なものを返します」


 一番大切なもの……それがなんであるか、彼ははっきりと理解していた。


 自分が思い出せない最後の記憶の欠片だ。


「ここまで思い出しておいて、これだけ思い出せないのは気持ちが悪いな」


 彼は自嘲気味に零し、ライネの神子の元へ向かった。


 周囲の気の乱れが、自然に戻るように収まってゆく。


 彼は神子の傍に立つと、その瞳を見据えた。


「返してくれるか。俺の『名前』を」


 意志のある声が、はっきりと響いた。

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