Day?? 長雨の後
彼はその日、以前の続きを夢に見た。
少女が掠われ、老婆の元で修行の日々を過ごし――しばらく経った後の夢だ。
彼は地道な努力を積み重ね、老婆の想定より早い段階であの魔法を完成させた。
いつかそれが必要になる時が来る。だが今は時期ではない。時が来れば伝えるから、せいぜい魔法の腕でも磨いておけ――と、老婆は相変わらずの奇妙な笑い声と共に残した。
幼なじみの少女を守るための魔法。完成したというのに、使える時期は読めない。
あの事件からずいぶんと年が経った。
もう間もなく、彼も少女も大人と呼べる年になる。未だに顔を合わせることはできないまま。
村の空を厚く暗い雲が覆う。
昨日まで雨が降り続いていた雨が、ようやく止んだ。村のあちこちに溜まっていた水は、ようやく外へと流れてゆくだろう。
路肩の水たまりに映る濁った空に目を向け、彼はつまらなそうに腕を組んだ。ここ最近の長雨に、彼も飽き飽きしていたのだ。
雨は降ってもらわなきゃ困るが、日も差してもらわなきゃ困る。だというのに、一向に晴れる気配はない。半月経たずに慌てるのは早急だが、あまりに続くようであれば、今年の作物への影響も馬鹿にならないだろう。割を食うのは、決まって自分たちなのだから。
あり得るかもしれない未来を思案する彼の耳に、女の話し声が入ってくる。
「ねえ、聞いた? 本国で神子様が生まれてたって話……」
「聞いたわ。代替わりしてたって話じゃない。村にいたんじゃないんですかって聞いた人がいたんだけど、答える権利はないってだんまりだったそうよ」
「なにそれ、どういうこと?」
わざとらしく声を潜めながら、彼女たちは彼の横を通り過ぎていく。
彼の頭が真っ白になった。
――今、こいつらはなんて言った?
言葉の理解を脳が拒絶している。頭の中が混濁としていく。鼓動が嫌な早さで脈打つ。体温が下がっていく。呼吸すら忘れかけた、その時だった。
「なに!?」
先ほどの女二人が、恐怖に声を上げた。
魔力の気配だった。莫大な力の予感。並のエルフであれば思わず怯んでしまうほど、その波動は強靱なものだった。
女達は慌ててその場を立ち去る。それだけではない。力の波動に気づいたエルフは皆、恐怖に逃げ惑っていた。エルフの持つ本能的な恐怖が警告するのだ。ここにいれば、自分は無事では済まされないのだと。
彼はその気配を肌で感じると、頭を打たれたような衝撃に目を見張った。
「……っ!」
多くの村人が外へと避難する中、彼はひとり、迷わずに力の源へと走り出した。考えるよりも先に、感じたまま体が動く。
彼を止める者は、誰一人としていない。
彼がそこへ向かえば向かうほど、周囲から万物の気配が消えていた。
土が割れ、路肩の木々は枯れ、道の雑草は灰のように形もない。雲の動きは止まり、風が消えた。自然物だけではない。周囲の物質全てが纏う気の一切が、物としての価値が、命が、今ここには存在しない。
このままでは、村もろとも消滅するだろう。
そんな魔法を扱えるエルフなど、この村には一人しかいない。
彼はただただ走った。
この魔法が実行されてしまう前に。その前に、急がなくては。
止められなければ彼女の命が危ない。
やがて、広場にぽつりと立ち尽くす人の姿を発見する。生命のない空間にたったひとつ、生命のある者の姿が。
そこにいたのはあの少女だった。
彼女を起点に、凄まじい量の魔力が放出されている。時間がない。向かい風に逆らって進むような、そんな魔力の圧をうまく交わしながら、彼は重い足を持ち上げる。一歩一歩、彼女へ近づいてゆく。
せめて気づいてくれればと、以前のように彼女の名前を呼ぶ。返事はない。彼は怯まず、繰り返し繰り返し彼女の名前を呼び続けた。重い体をなんとか動かしながら。魔力の圧力に必死に耐えながら。
それでも、彼女の口から言葉が返ってくることはなかった。彼女はただただ、空っぽの瞳で空を見つめている。
彼の、鉛のように重たい手が、彼女の右肩を掴んだ。
「おい、しっかりしろ! 魔法を解け!」
できる範囲で肩を揺すってみるが、彼女の目がこちらへ向くことはなかった。
「このままじゃ死ぬぞ!」
「……わたしはいらない。ぜんぶ、いらない」
感情のない声だった。間違いなく彼女のものだが、彼の知らない声だった。心の熱が全て消え、凍りきってしまったかのような。
「もう、いい」
意思のない瞳から、すっと涙が一筋こぼれ落ちる。その涙が彼女の足下を濡らした途端、周囲から色が消えた。
間もなく、彼女の描いた魔法が実行される。
「いいわけないだろ……」
震える声で呟くと、彼は頭の中で魔法式を組み立てる。
彼女の魔力と魔法式の繋がりを切ってしまえばいい。
結界の魔法を応用すれば可能なはず。
あの老婆の元で気の遠くなるような修行を重ねたせいで、手順も、方法も、全て頭に入っている。
やり方を知っていても、決して楽な道でないと分かっていた。これだけ強大な魔力の圧だ、断ち切るとしても、抵抗する力だって強いだろう。しかし、迷っている時間はない。
彼は彼女の両肩に手を置くと、そこへ魔力を込める。暴走する彼女の魔力が、こちらの術を押し返してきた。抗うよう頭の中で魔法式を組み立てれば、左胸が締め付けられるような不快感が襲う。
恐らく自分は無事では済まない――そう理解しながらも、彼は魔法を詠唱し続けた。
たとえ自分がどうなろうとも構わない。
だけど。
「……リタが死んでいいわけがない」
そして彼は魔法を使った。
その後村がどうなったのか、彼は覚えていない。
最後に記憶に残ったのは、彼女が自分の名を呼ぶ声だけだった。
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