Day8 湖の花
混沌と意識が沈む中、彼はもう一つの夢を見る。
それはあれからしばらく先の夢だった。
薄暗く散らかった部屋の一室に、まだ子供の彼と、いつかの夢に出てきた奇妙な老婆の姿がある。
「できたぞ」
彼は生あくびをかみ殺し、しかめっ面で老婆へ紙を手渡した。眠い目を擦りながら相手の言葉を待つ。目の前の老婆は眉一つ動かさなかった。
「はー、つまらんつまらん。こんなの誰だって破れる」
三日三晩寝ずに書いた魔法の術式を、たった一分で馬鹿にされた。
「は? ちゃんと読めよ」
「読んだ。読んでやった。ちゃあんとな。儂はトクベツ優しいからの、初っぱなからダメだと思っても全部読んでやるのじゃ」
優しいやつはそんな言葉選ばないしそんな態度は取らないと言いたかったが、彼はその言葉を飲み込んだ。多分に努力して。
あの日より大人になった彼だが、腹が立つものは腹が立つ。苛立ちを微塵も隠さずに、彼は老婆からその紙を奪い取った。
「この間のやつはいいって言ったじゃんか」
彼は納得できなかった。先日褒めてきたと思ったらこの変わり様である。
「アレはサンプルじゃサンプル」
「なんだよそれ」
おまけに理由は意味不明だ。
「いいか。数をこなせ、数を」
まるで説教するかのように、老婆はペンでテーブルを叩いた。
「無駄を省き、いかに効率よくできるか。それでいて破られぬよう難解にする。単純じゃろ?」
だからその単純なやり方が難しいんだろうと睨んで言外に零すが、この老婆がそんなことで怯むわけはない。彼にもそれが分かっていた。せめてもの抵抗だった。
「……助けたいのではないか?」
老婆が少女の名前を口にする。その声に、彼の眉がぴくりと動いた。
一年前のあの雨の日、最初に彼を見つけたのはこの老婆だった。
老婆は彼から事情を聞きもせず、倒れたままの彼に言った。
少女を助けたいならば、自分の元で魔法を学べ。一番の近道だ、と。
彼にとって、老婆の印象は奇妙な笑い声と地獄耳しか残っていない。が、すさまじい魔力を有していることは理解していたし、あの大人達のように汚く表面を取り繕う性格ではない。彼にとっては数少ない信頼できる大人だった。
普段であれば即断しなかっただろう。しかし、あの日は違う。
道のない彼に選択肢はなかった。
「……直せばいいんだろ、直せば」
「そうだ、素直な方が楽に生きられるぞ?」
とはいえ、余計な一言は多いし意図的に出すであろう笑い声は気持ちが悪いし、時折下についたことを後悔しないこともないが。
彼はため息をつくと、突っ返されたばかりの紙に目を向けた。
この状態から、より効率的な魔法にするためにはどうしたらいいか考えなければならない。
結界の魔法を扱えるエルフは限られている。男であればもっと希有な存在だ。自分にしかできないのならば、高めていくしかない。
それが彼女を助ける力になれるのならば。
その日、彼は頭痛と共に目を覚ました。
後頭部の一点に突き刺さるような鋭い痛みだ。彼はその部分を手で押さえながら空を仰ぐ。
空の色は薄く、森の葉の先からは橙色が見えた。存在を主張するように明るく眩しい星がひとつだけ。森もどこかおとなしい。どうやら間もなく日が暮れるらしい。
ずいぶんと長い時間眠っていたような気がする。その間に何度も何度も夢を見た。
年齢も変わり、状況も変わり、人も変わり。その中でも、特に脳にこびりついて離れない夢が二つほど。先日までであれば夢の内容をぼんやり思い返しているところだが、今日はしたくなかった。夢の内容を思い返そうとするだけで、胸の奥が不快感に満ちるからだ。
ライネの言うとおり、今回ばかりは散々な夢ばかりだった。けれど、相変わらず自分の記憶は一向に戻らない。
おまけに今日は体調が悪い。二度寝が脳裏をよぎったが、また妙な夢を見るのはごめんだ。少々気分転換がしたい。
男はハンモックから降りると、ゆっくりと歩き出した。
まだ足を運んでいない東へと。
この空間が、どの国のどの場所に位置するのか彼は知らない。
ライネにも聞かされていないし、興味がないから尋ねなかった。しかし、今になって聞いておいた方がよかったかもしれないと後悔した。
あっという間に辺りが暗くなったからである。
「参ったな……」
自然の生命と触れ合うことにより、エルフの活力は満たされる。
本能的にそれを知っていたから、彼はあの場所から動いた。しかし夜には草花のほとんどは眠りにつくし、ここまで暗くなっては、元いた場所に帰れるかどうか疑問である。
夜風が彼の周りや木の葉を揺らし、静かに抜けてゆく。森の中、葉と葉のこすれる密やかな音がこだまのように響いた。その音に耳を傾けた彼は、視界に光の粒を見る。
「……?」
雪よりも小さな、白く穏やかな光。それは風に乗って漂った後、闇に溶けるように消えた。
光の元を辿るよう、彼は周囲を見回した。右方がぼんやりと明るい。もしかしたら、あれはそこから来ているのかもしれない。
彼は迷わず、そちらへ歩を進めた。
空の光を遮る木々はなかった。
そこは、月のように丸い湖と、それを囲うように存在する花畑があった。釣鐘状の白い花ひとつひとつが、ぼうっと淡い光を放っている。風が吹くたびに雪のような光が漏れ、空気に溶けた。
魔法ではない。けれど、そこからなんからかの力が放出されている事は確かだった。
彼はその非現実的な景色にしばし目を奪われる。ふと、湖に映り込んだものを目にした彼は、納得したようにため息をついた。
湖の中には、丸い月が歪みながらもはっきりと浮かんでいる。
この花の栄養は月光だ。だからここには空を覆い隠す木がないのだろう――そう結論づけた。
「こちらでしたか」
久方ぶりに聞く透き通った声に、彼は振り返る。
しとやかな足音と共に、今夜もまた現れた。ライネは月の花の粒子を纏いながら、こちらへ向かってくる。その様がどうにも現実離れして見えて、彼は思わず息を飲んだ。
「お加減はいかがですか?」
「最悪だ。あんたの忠告通り、散々な夢を見た」
「そうですか」
ライネはそれだけ返すと、彼の隣に立った。彼と同じ目線で、同じように湖の花に目を向ける。
「あれは……月の花か? けど、太陽の光が必要じゃないなら植物じゃないよな」
「
「原種はもう二回りほど小さいのですがね」
先ほどまで吹いていた風が止む。水面の揺らぎがぴたりと止まり、曖昧だった湖面に周囲の景色が映し出された。傍らに咲く月満草も、空に浮かぶ満月の姿も、鮮明に。
「どうかあと少しだけ、頑張ってください」
その声は祈りの色を秘めていた。
彼は返事をせず、その瞳を見つめ返した。
ライネの意図は相変わらず分からない。素直に受け取ることのできない言葉だ。しかし、こちらを憂う気持ちだけは理解できる。
だから、気持ちだけは受け取ったという意を込めて、彼はわずか頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます