Day3 結界

 夢を見た。


 ついこの間出てきた女の子の夢だ。


 彼女はすっかり大人になっていた。背は伸びたが、腰まであった長髪は肩にかかるほど短くなっており、あの時のような無邪気さはあまり感じられない。大人になり落ち着いたようにも、その純粋さを失くしたようにも思えた。


 自分と彼女は木々の生い茂る森の道を歩く。他愛もない日常の話に笑い合い、時折冗談も入り交ぜた。雰囲気は変わったが、自分との関係はたいして変わっていないようだ。


 だというのに、自分はひどく苦しかった。胸の内に不快感を覚える。ぞわりとした悪寒に表情が強ばった。が、俯いて表情を隠す。


 笑顔でいなければいけない。いつも通りでいなければ。そればかりが頭の中を埋め尽くした。


 不快感は消えない。苦しい。苦しい。けれど、決してそれを口に出してはいけない。


 彼女にだけは、絶対に。




 彼はその日、目覚めてすぐにいつもの場所から移動した。


 獣道を頼りに、彼はただただ前へと進んだ。この場所の花は存在が曖昧なものが多いが、傍らに生える樹木だけは違う。知らぬ種類の木々を見れば癒やされるだろうと考えたのだ。


 曲がりなりにも自分はエルフだ。なにもかも分からないし、体の状況も変わらないが、自然の生命力で癒やしを得られることくらいは覚えている。


 時折立ち止まって木々を見上げると、この空間には様々な種類の樹木があることに気がついた。それぞれの葉の濃淡はもちろん、葉の形も少しずつ異なる。円形に近いもの、楕円形のもの、周りがとがっているもの、手のように葉先が五つに分かれているもの、三つ葉のようなもの。


 風が運んだ葉も彼が見つけたものとはまた異なり、見ていて飽きない。


 ここに来て初めて、自分は楽しいと思ったのかもしれない――男はぼんやりと考えた。


「……ん?」


 目的なく歩いていた彼の足が、ある場所を境にぴたりと止まる。


 視界の先には変わらず森が広がっている。しかし、その様子がなにかおかしい。


 ここにはなにかがある。


 直観的に判断し、男はそこに触れた。すると、触れた手から空間が歪む。水に手を浸したかのように、大きな波紋とともに歪みが広がった。そこを押してみるが、柔らかいなにかに押し返される。


「壁……なのか」


 魔法障壁。頭の中にそれがふっと浮かんだ。その瞬間、波打つ壁から、見慣れぬ文字が浮かび上がる。


 少なくとも、普段使われている文字ではない。彼は一目で判断した。


「壁――いや、結界の、魔法式……」


 脳に浮かんだ言葉をぽつりと零す。


 こことどこか、あるいはどこかとここを隔てる結界。そのための魔法が、目の前にある。


「気になりますか?」


 それから間もなく、澄んだ声が辺りに響いた。ライネの声だった。

 彼は振り返らない。壁に向けてふっと笑った。


「今日はずいぶん遅いんだな」

「ええ、今日は」


 いつもはすぐ来るくせに、と言外に零す。

 しかし、ライネは皮肉めいた物言いにも決して動じることはなかった。


「これはなんだ?」

「この空間と外を隔てる障壁です。ここの環境を維持するためにも必要な魔法です」


 彼は壁から手を離し、傍らの木に視線を向ける。


 思い思いに葉や枝を伸ばす姿にしがらみはなく、幹や根を見ても健康そのものだった。ここに生えている樹木の生命は全て輝いている。ライネの言うことは、あながち嘘でもないのだろう。


「しかし、たいそうなものを作ったな」


 ため息交じりに吐き捨てたが、すぐに言葉が返ってこない。なぜ黙っているのか――疑問に思っていると、ライネは彼の傍に立った。そこに触れると、彼女と呼応するように、透明な壁に旧い文字が浮かび上がった。


「この障壁には、守るべき人を第一に考えた術式が組まれている。その方が心から守りたいと願った想いが」


 ライネは旧い文字を見つめながらつぶやく。視線は文字にあるようで、けれどどこか遠くを見ているようでもあった。


「あんたが編み出したのか?」

「いいえ。ある方から教えていただいたのです」


 意外な言葉だった。彼女なら作りかねないほどの力があるだろうに――彼は眉を寄せる。


 しかしやはり、ライネの紡ぐ声は決して揺れなかった。


 嘘をついている奴の顔ではない。お人好しなのか、それとも馬鹿なのか、もしやうまく騙されているのか。この数日、わずかな時間話した程度では、断言するにはまだ甘い。それに、そもそも治療についての詳しい話を聞いていない。


 今だったら聞けるだろうか。彼はライネに向き直った。

 ライネの長い髪が穏やかな風に揺れた。色素の薄い髪が、太陽の光に匂う。ふわりと風を含んだかと思うと、ライネと視線が合う。


「……もう時間ですね」


 その言葉を理解した途端、彼の頭に靄がかかっていく。


 またあの感覚だ。あの、意識を失う前の曖昧な感じ。


 溶けるような思考に抗うべく、彼は手を握りしめる。感覚の薄い自分の手を。


「待て、まだ……全く、聞いてない……」


 ライネは彼へ一歩踏み出すと、その手を優しく包み込んだ。

 柔らかく、温かい手だった。生きている者の熱をはっきりと感じるような。


「大丈夫。時間はありますから」


 諭すように口にした後、温かな手が離れていく。彼の意思とは関係無しに、離された手がライネへと伸びた。


「今はもうお休みください」


 その手に触れる熱はなく、彼の意識は落ちた。

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