Day2 治療

 その日、彼は同じ場所で目を覚ました。


 青白い色と共に陽が昇り、その光を受けて植物がゆっくりと目覚めていく。最も生命力溢れる時間の中、彼は体を起こす。


 目を擦りながら立ち上がり、森の緑を見回した。人の姿が見つからないかと注視しながら。


 やがて、彼は頭を振った。


「……夢か」


 夢の続きを現実に持ち込むとは。相当寝ぼけているようだと、自嘲気味に笑った。

 彼は夢を見た。


 小さな村にいる女の子の夢だ。長い髪の女の子だった。太陽のように眩しくて、自由で、よく笑っていた。


 夢の中で、その子と自分は一緒に走り回っている。自分は付き合わされているような気持ちでいたが、女の子には決して不満も文句も口にしなかった。


 楽しく幸せな夢だったのだろう、目覚めた直後であるが、嫌な感覚は残っていなかった。


 男は足下に視線を落とす。一歩先には、白らしい花の蕾が、太陽を待つように頭を垂れていた。


 今の状況も夢ならばよかったのだが、どうやら夢ではないらしい。男は眉間に皺を寄せ、大きなため息をついた。


 昨日の記憶は曖昧だが、なぜか自分がこの非現実にいること、ライネという女に会ったことと、自分のことが思い出せない――いわゆる記憶喪失だということ、それだけは覚えている。


 それに。彼は自分の手のひらを見つめ、先日と同じように手を動かしてみる。やはり感覚はなく、自分の手であるという意識は薄いままだった。



 かすかな羽音が、やがて鳥のさえずりへと変わる。


 彼が顔を上げると、視線の先の枝に一羽の鳥が留まっていた。遠目でも分かるほど黄色の体が美しい小鳥は、朝を告げるように軽やかな声で鳴く。それは木の葉を震わせ、森にあまねくその歌を響かせた。


 それと共に、後方から土を踏む小さな足音がやってくる。彼はためらわずに振り返った。


「おはようございます。よい朝ですね」


 同意のように、彼は軽く頷いて返す。


「ライネ。あんたに聞きたいことがある。ここはどこだ?」

「エルフの国の山奥――ですが、あなたが知りたい答えではないでしょう」


 静観していた彼だが、ライネの言葉にわずかに息を飲んだ。

 その喉の動きを見逃さぬ彼女は、悟らぬふりをして続ける。


「あなたを『治療』するための場所です、ここは」

「治療……だって?」


 彼は厳しい顔でライネを凝視した。ライネはその瞳を受け止める。彼女の緑の瞳は揺るがない。自分の言葉に確かな責任を持っている、強い色だ。


 彼は諦めたように息を吐く。どうやらライネという女は軽率に冗談を言う人物ではないようだし、嘘を織り交ぜるしたたかさも今のところはないらしい。


 けれど、じゃあなんで自分は。


 彼は静止したまま、己の体のあちこちに意識を向ける。が、相変わらずぼんやりとしていてよく分からない。今、特別痛むところはなかった。先日見た手や足には特に外傷はない。怪我が要因とは考えづらい。強いて言えば頭、自分の記憶がないことくらいだ。頭痛はないが、頭の病気かなにかだろうか。


「頭か精神でもやったのか、俺は」

「いいえ」


 じゃあなんで、自分には記憶がないのか。


 彼は視線を落とす。湿気を含んだ灰茶色の土に、己の影が落ちていた。


「……そうですね」

 ライネは自身の左手に魔力を込めた。すると、何もなかった空間に透明な水瓶が現れる。五分目まで水が満ちているそれは、彼女が手に取るとわずかに波打つ。


「これを見ていただけますか」


 その声に彼が顔を上げる。同時に、ライネは水瓶の底に触れた。


「これは大切な水を運ぶための水瓶です。もしこれにひびを見つけてしまったら、あなたはどうしますか?」


 突然の問いに彼は面食らうが、その問いに付き合うことにした。どうせ今の自分にはなにもないからだ。


「……そうだな」


 ライネの手にした水瓶を熟視し、彼は腕を組んだ。


 水瓶を満たす水はとても透き通っている。棄てるという選択をためらうほどに。その水を受け止める瓶は、持ち手の金の装飾が目を引く美しさだ。器自体もなだらかな曲線を描いている。中身にも器にも同様の価値が感じ取れた。


「水が入る前であれば別の瓶を使う。水を入れてしまった後なら、別の瓶に移し替える」


「では、この水瓶である必要があるとしたら?」


 その言葉に、彼は一瞬言葉を詰まらせた。しかし、答えは単純だ。


「そうだとしても、中の水は大切だ。いったん別の器に移して、修繕してから使うようにするしかないだろうな」


 彼の問いに、ライネは静かに頷いた。


「そうですね。水も、その器である水瓶もとても大切なものです。水瓶の修繕のためには、一度中の水を空にしなければならない。けれど、その水を無碍にすることもできない」


 状況を整理するように言葉を並べた後、ライネは彼の瞳を見つめる。瞳の奥の――もっと深いところを覗かれているような気がして、咄嗟に彼は左足を後ろへ下げた。


「あなたが今失っているものは、いずれ元に戻ります。水瓶の水のように」


 彼は目を見張った。


 ライネの言っていることが正しいのであれば、自分の記憶がないのは治療のためだということになる。だが、彼女にその話はしていない。こちらの事情をどこまで知っているのか。そもそも、自分はライネの知り合いなのか――。


 言いたいことは山ほどある。聞きたいことだって、数え切れないほど。


 けれどそれを口にする前に、彼の頭に濃い霧がかかった。先ほどまで深く眠っていたはずなのに、もう朝が来たというのに、ひどく眠たい。眠くて、眠くて、仕方がない。


 体の体温の感覚がなくなる。頭がぼうっとしてくる。まぶたが重くなる。ただでさえ曖昧な体の感覚が消えていく。


 消えて。


 消えて、溶けて――。


 問いかけることができぬまま、彼の意識は落ちた。

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