第十五話 ディシュトゥラケ
「は?」
ラルーニは聞き返した。カトワフの言葉が彼にそう言わせた。認めたくないが、認めざるを得ない現実を突きつけながら。
「間違いない。裁皇の隣、重なっていて少ししか見えなかったが、あれはディシュトゥラケだった」
裁皇の身体を支えている修道僧の内、裁皇の右側、カトワフから見てちょうど裁皇に隠れるところを、もう1人の修道僧が歩いていたのだ。彼は、両手で何かを持っていた。それが、裁皇の衣服が微風で揺れた瞬間、カトワフの視界に入ったのである。子供でも一度は目にしたことのある帝冠。各教会の祭壇に刻まれているもの。月桂樹を掴んで飛び立たんとする鳳凰の意匠。その月桂樹からはザム帝国建国の出来事に準えて、血を表す紅玉が、鳳凰の目からは涙を示す蒼玉がはめ込まれている。神々しいまでに見る者に畏怖と信仰心を芽生えさせる宝物。その実物が、そこにはあった。
「そうでしたか」
ラルーニは単調に答えた。カトワフの目が自分に向けられているとも知らず、在らぬ方向に目をやりながら。
「そうか…お前も見たか」
カトワフの言葉を聞き、ようやくラルーニはカトワフがこちらを見ていたことを知った。表情を読まれたのだ。無難にこの場を収めようとした結果、彼は失敗した。ラルーニは頭に手をやり、次に項垂れ、その次に天を仰いだ後で、口を開いた。
「はぁ、ゾルゾラク様もそうでしたし、ダンジャル様もそうですが、どうしてこうも貴方方ご家族は人の心を的確に読み取るのか…。はい、確かに見えました。あれは間違いようもなく、ディシュトゥラケです」
もしかしたら父よりも信頼している騎士にそう言われ、カトワフは再び目線を夕景に戻した。太陽はとっくに沈み、月が空を支配下に納め始めていた。
「ああ」
カトワフはそう呟きながら、目を閉じた。納得したのだ。裁皇は悪魔である。大帝冠が彼に囚われている。それは、悪魔によって自由を失った人、そのものであった。大帝冠は悪魔の手にあるべきではない。自由は、人は、人のものであるべきなのだ。それは、絶対真理の如く、カトワフの眼前に示されていた。ただ、まだ手が届かないだけで、彼には見えていたのである。
兄亡き今、カトワフは霧の中にあって、道標を見失っていた。しかし、新たな道標が、目的地が示された。あとは、もう、動くだけ。ただ、ここから、去るだけなのだ。忌まわしい、悪魔のお膝元から、逃げるように。
「帰ろう。もう、ここにいる必要はない」
カトワフは立ち上がり、夕景に背を向け、歩き出した。ラルーニもそれに続く。ラルーニがカトワフの後ろから歩き始めた時、彼の聴覚は微量な声を拾った。
「早く、家に帰りたい」
その言葉は、カトワフの声であった。しかし、ラルーニは違和感を覚えた。鼻歌が同時に聞こえてきたからである。まるで、死んだゾルゾラクが弟を介して、自身の望みを口にしたかの様であった。
それにラルーニも答える。自分の知る中で、最も善良な亡き人に向けて。
「ええ、帰りましょう。皆さん、お待ちです」
彼の言葉は静かに、夜に消える。音程の揃わない不慣れな鼻歌と共に。
『さあ、稲刈りのこの
あなたも私と踊るだろう
さあ、お祭りのこの
あなたも私と話すだろう
さあ、お開きのこの
あなたは家に帰るだろう
私はひとり、賛辞する』
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