第十四話 魔の姿
頭上に広がっていた雲ひとつない夏空は、いつの間にか赤みを増し、太陽とは逆方向に月が出てきていた。人々の足も、職場から家へと向いている。人家から伸びる煙突からは、白煙が上がり、まだ昼間の熱気残る風に吹かれ、揺れている。
この夕景をンリュダの丘から白衣を着た2人の人物が眺めている。1人は地面に座り込んだ者の少し後ろに立ち、その後ろ姿に心配する顔を向けている。裁皇との謁見が終わってから、彼の主人はこんな状態である。時折り鼻歌が聞こえる為、意識がないわけではなさそうである。楽しそうではないことは明白なのだが。
「ヤトゥーシュ様、そろそろ商会に戻られた方がよろしいかと…。皆、心配します」
ラルーニの声掛けに同然だが返答はない。調子が一定でない鼻歌がよりはっきり聞こえてきただけである。ラルーニは吐息した。こんな調子ではすぐには国元には帰れそうもないと思ったのだ。今のカトワフの状態はそんな不安をより高める効果を持っていた。
激しく掻いたために乱れた髪。大聖堂内で履いていた草靴を履き替えることなく、歩いたせいで靴底が破れ足裏が見えている。いつもは伸びている背も丸まっている。ラルーニにはカトワフが泣いているのかどうかも判別できなかった。
太陽が完全に視界から消えた頃、ようやくカトワフが声を出した。いつもと変わらない口調だが、声は小さく、微風で吹き飛んでしまうのではないかと思わせるほどのものだった。
「なあ、ラルーニ」
「はい、ヤトゥーシュ様」
ラルーニはカトワフの声掛けに応えたが、カトワフはすぐには言葉を継がなかった。何から話してよいのか、思案している様であった。しかし、少しの間をおいて彼の口から出たのは、何の変哲もない単純な質問だった。
「『稲穂に屯ろう小鳥の賛歌』という歌を知っているか」
「ええ、存じ上げております。収穫祭の教会祭祀で歌われる歌ですよね」
『稲穂に屯ろう小鳥の賛歌』は秋になり穀物などの収穫を始める前に、穀物の聖人である聖ワンソローに捧げる賛辞歌の1つであり、数ある賛辞歌の中で最も短い歌である。もっとも、他の賛辞歌が以上とも言える程に長い事を考慮して比較する必要があるが。
「兄は…この歌が好きだった。収穫祭とは無関係に、隙があれば鼻で歌っていた」
カトワフの脳裏には商会の仕事の合間に抜け出し、鼻歌混じりに屋根上で読書している兄の姿が浮かんでいた。それが日常だったから。隙を見つけては抜け出し、父に無言の説教を受けていた。そんな日常があったから。
「ゾルゾラク様は牧歌的なところがありましたね。剣を持つより聖書を、人と話すより自然を愛でることを優先されました」
一時期、ゾルゾラクの専属護衛騎士だったことがあるラルーニは、困った思い出の中に彼がいた。剣技を教授する様に彼の父に頼まれたのに、相手にその気がなく、遂には一緒になって農地を駆けていた。その後任を解かれたことは言うまでもない。
ラルーニの言葉に、カトワフは頷くことで賛同を示した。確かにそんなこともあった。あの事件にカトワフも一枚噛んでいたのだ。ゾルゾラクがうまく誤魔化したことで父の説教を逃れることができたが、後から2日間父に無視されることがあったので、父は全てを知っていたと思われる。懐かしい、恋しい日常。
「それなのに、そんな兄が、剣を持って、人と話しながら、異教徒の剣に倒れた」
「…はい」
兄と会った最後の日、カトワフはそれまで『兄上』と言っていたのに、その日だけ『ゾルゾラク様』と言ったのだ。何故なら、目の前にいたのは彼の知る兄ではなかったから。細身の身体に似つかわしくない甲冑を身にまとい、持つことさえ避けていた剣を腰から下げていた。あの日の全てが、いつもと違っていた。
兄を変質させた。聖書を愛読書とし、教会に対する強い信頼を持っていた心を利用して、兄を死地に送り込んだ。誉高い行為などという称賛はいらない。ただ、兄を、以前の兄を返して欲しい。だが、裁皇はその切なる望みに恐ろしいまでに残酷な応え方をした。
「あれは、悪魔だった」
カトワフが謁見最後に見たのは、人ではなかった。まるまると肥え太った巨体を黒一色の聖職服におさめ、両脇を2人の修道僧に支えられながら謁見の場を後にする姿だった。本来は頭上に頂いているはずの単層冠は主人の前方を先行していた。カトワフには、あれがどうしても裁皇、いや、それ以前に人には見えなかった。
「人の皮を着込んだ、悪魔だ」
それが、カトワフの目にした現実だった。
「…」
ラルーニは彼の言葉に答えるに相応しい言葉を持ち合わせていなかった。これまで必死に目にした現実と心中で抗争してきた彼に、抗争の結果その現実を苦しみながら認めた彼に、どう答えよと人は言うだろうか。もしいたとしても、それは当事者にとってあまりに残酷であろう。
両者が黙り込み、彼らの間を夏風が吹き抜ける。昼間とは異なる、乾き切って、冷たい風が、鋭利な刃の如く、彼らの頬を掠める。傷の癒える間など与えずに。
ラルーニが思わず頬を手でさすった時、カトワフが再び声を出した。今回の声には、はっきりと、怒気が含まれていた。声に力は入っていなかったが、その声は、怒りで震えていた。そして、彼は言うのである。現実の一端を。
「
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