第二話 狂乱


ー歴史の分岐点は何処かー

ーここであるー


         歌劇『百姓と詐欺師』より


        ◆◇◆◇◆


 ルキウス暦が制定されてより千年の時間が流れた頃のことである。

 アットンハリウ自由市とハストックハリウ連邦共和国の国境沿いに広がるテトラルハンセ(霧の森)には当時、3つの道が整備されていた。その内の一つに神裁前記306年に未だ民政下のザム帝国がこの地を占領した際に整備した『大道ティートゥルル』がある。ある日、この道で2台の馬車が正面衝突した。いつにない豪雨の中であり、名に恥じぬ程の濃い霧が立ち込めていた。御者は馬の下敷きとなりその姿を確認することはできない。辺りには馬車の積んでいた荷物が散乱していた。

「くそッ‼︎」

 衝突し倒れた馬車の1台から1人男が這い出てきた。全身を赤を基調にした服で着飾っており、指にはめた指輪からそれなりの身分の者だと認めることができた。彼の両足は、もう、主人の体重を支えることはできない。男はようやく馬車の下から解放されると、仰向けになり、呆然と滴る雨に打たれた。

「おい!誰か、誰かいないのか!」

 男の発する声は虚しく森に響く。もう自分が助からないことは彼には分かっていた。それでも、生きたい。最後の足掻きである。

「私は…!ハストックハリウの」

「ゼバリゥーゼ様」

 ゼバリゥーゼは自分の名を呼ぶ方に目を向けた。そこには、片思いのまま実るはずのない恋の相手、身分の違いという壁に阻まれた愛し女がいた。

「ゼリヤ!」

 ゼリヤの体の半分以上が馬車の下敷きになっており、辛うじて馬車の下から出でいる顔は、しかし、左半分は原型を留めていなかった。

「ゼリヤ!ゼリヤ‼︎いま…今助ける!もう少し…あともう少し…」

「ゼバリゥーゼ様…」

 弱々しい声は、今にも森の深淵に吸い込まれそうであったのに、ゼバリゥーゼにははっきりと聞こえた。恐ろしいほどに、鮮明に、聴こえた。

「私は、あなたの、ことが、好きです」

 相手の口から漏れ出てくる様に聞こえる声は、途切れ途切れに、一呼吸ごとに、精一杯の力を込めた声として、ゼバリゥーゼの脳裏に焼き付く。ゼバリゥーゼもまた、それに応える。

「ああ…ああ…私も、私も君のことが…」

 ゼバリゥーゼは死に行く彼女に一番伝えたいことを言語化できなかった。たった一言であるはずなのに、彼には言えなかった。言ったら、目の前の彼女が消えてしまいそうな恐怖に、かられたからだった。

「ゼバリゥーゼ様」

「…うん?」

 ゼバリゥーゼはゼリヤの目を見つめた。ゼリヤは彼の顔を数瞬見つめると、目を細め、微笑んだ。ゼバリゥーゼが好きだった、太陽の様に明るい笑みだった。そして、その口から発せられた言葉も、明るかった。

「幸せ、でした」

「ゼリヤーーーッ‼︎」

 ゼバリゥーゼの声は、途中からは馬車の車軸が折れ、車体が崩れる音に掻き消されてしまった。ゼバリゥーゼの視界から、ゼリヤが消えた瞬間でもあった。

「う…ううううぅぅぅぁぁぁああ‼︎‼︎」

 憎悪。憎悪。憎悪。

 一瞬でも、自分のみの安全を優先した。一言でも、ゼリヤの名を呼ぶべきだった。なのに、死にたくないが故に口が出た言葉は、既存特権にすがりついたものだった。

 これだけでも、彼、ゼバリゥーゼにとって絶え難いほどの後悔であるのに、それに追い打ちをかけたのは、皮肉なことに愛する女の言葉たった。

「ううう…ゼリヤ、なんで、なんで好きって言うんだ。私は、君を見捨てようとしていたんだよ?それでも、そう言えるのかい?」

 死者に向けた質問は、激しさを増す雨音が受け止めただけに終わった。

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