序章 霧の森にて

第一話 記憶の重み

 耳元で囁かれる愛に溢れた言葉。暖かな肌の感触と、掛けられた毛布の持つ太陽の温もり、染みついた土と風の香り。近くから聞こえくる小鳥の囀りと、農作業に勤しむ村人の話し声と笑い声。

 秋の作り出すこの光景が、1人の命が記憶した最初のものとなった。この命の燃えていた期間中、彼は幾度となく幼少期の話を周囲にしていたという。とても、嬉しそうに、懐かしそうに。

 この話の中で彼が必ず言っていたことがある。それは母の言葉であり、彼にとっての始まりの言葉。

「ぽっかぽか〜。あったかいね〜。あっ鳥だよ〜見えるかな〜?」

 彼は生涯この言葉を守り通そうとした。どれだけ自身が汚れようとも、非難されようとも、自己否定を強制されようとも、母の言葉だけは、その温もりと記憶ともに守り通そうと…。


 だが、この記憶には続きがあった。


 薄明かりが室内に入り始めたころ、玄関の戸が叩かれる音が家に響く。朝食を作っていた母が何かを言いながら戸口に向かう。口から出る息は、日に照らされ幻のような白色を漂わせる。水の冷たさ故にひび割れた手が戸を開けると、そこには男が1人立っていた。動きやすい服を着ているはずなのに、とても重いものを背負っているかの様に肩に力が入っておらず、顔には表情がなく、目も空だった。

 母の問いかけに、男は頭を垂れて小さく答えた。

「あいつの爪です…。もう…髪すら持って帰ることができなかった…。最後まで…それこそ死んでも笑顔でした」


 ルキウス暦1112年の秋…。サンソヌ村に悲鳴が静かにこだまする。この時、トゥルサ・ワドゥガズルは4歳を数えたばかりである。

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