第三話 霧の中
ゼバリゥーゼの身体が主人の意思に反して動けなくなってきた頃、彼の聴覚が音を拾った。それは、馬が近づいていることを示していた。
「誰か!誰か助けてくれ!」
叫びながらも、彼は悟っていた。これで仮に気付いてくれたとして、最寄りの町まで連れて行ってくれたとしても、もう自分に生きる余力が残されてはないということを。それでも、足掻く。少しでも、自分の言葉を生家に届けたい。そして、伝えたい。禁忌を犯してまでも愛し通したい女がいることを理解して欲しい。いや、理解してくれるとは思えない。それでも、いいじゃないか。
「ゼリヤ…君と一緒に…」
そうだ。理解なんて必要ない。彼女と一緒にいることができれば、それで十分なのだ。
意識が遠のく中で、彼の希望は、馬は、止まることなくまっすぐこっちへ向かって来ていた。どんどん蹄の音は大きくなり、遂に、止まった。
「あぁ…こっちへ来てくれ。伝えたいことがある。私の名は」
「はぁ…情けない。しっかり殺せと言っておいたのに。お粗末にも程がある…。死んでないじゃないか」
ゼバリゥーゼは理解が追いつかなかった。現実かだろうか。いや、嘘であって欲しい。何故って、彼の目の前に立って跪くことなく見下ろし、信じ難いことを口にした相手は、彼の政友の護衛騎士の一人だったから。
「お…お前は…ザルツッ⁈」
ゼバリゥーゼの発した言葉に、褐色の髪を有する男は少し驚き顔で答えた。
「おや…頭はまだ生きてましたか?ふぅん…まぁそうでしょうね。それほど派手な事故ではありませんし…」
嘘では、なかった。
圧倒的優位からくる弱者への軽蔑が目の前の騎士からゼバリゥーゼへと向けられていた。その目は、遂先程までゼバリゥーゼが他者へと向けていた目と同じものだった。
「…跪け」
「は?」
「跪けと言っているんだ。私はハストックハリウ大老院に席を置く参事官の一人ゼバリゥーゼ=ヤサム・ビィン・バリューゼルだ。お前の主人と同格の人間だ。お前が主人に跪くように私に対しても同様だ」
ゼバリゥーゼの中で燻る本能が彼にそう言わせていた。生まれた時から彼の周りの人間は彼に対して跪いていた。彼が望むと望まないとに関わらず。だからこそ、見下ろされることには、慣れていない。そして、そのことを至極当然の事としてでしか彼は認識できなかった。
「無理ですね。あなたが死ねば跪けますが…」
「ならすぐに跪けるぞ。私はもう、永くない」
「それもいいんですがね。私があなたを殺すいい機会を逃すはずないでしょう」
死への恐怖。それが具現化した存在が目の前に立っている。それは腰に剣を下げた、鉄紺色を纏った騎士、いや、ゼバリゥーゼにとっては死神でしかなかった。
「いやだ」
「大丈夫。何も怖がることではないんですよ。だって、愛する人…ゼリヤでしたっけ?彼女のいる世界にいけるんですよ?苦しみも、痛みも、それこそ悩みもない世界に」
「いやだ…いやだいやだ」
動くことのない下半身を引きずる。動く上半身を酷使する。泣きながらも、歯を食いしばって、激しく降る雨の中、泥に鞠れながらも、動く。彼を動かすものは何なのか。それは…。
「あ〜あ、逃げないでくださいよ。歩かなきゃいけないでしょうが」
笑う死神。死を嘲笑う死神から。
望む事が叶う事が常であるなら、この時の彼は助かっただろうか。死神から逃げ切る事ができたのだろうか。
否。
遂に彼の身体は動きを止めた。彼の意思に反して。
「動け!動いてくれ!頼むから…動いて…」
もがくゼバリゥーゼに笑い声が降りかかる。不気味なほどに甲高い笑い声は森に反響して重複し、一層不気味になっていた。
「傑作だッ!俺の前で人間が芋虫になっていやがるッッ‼︎足も?腕も⁇身体さえも⁈ははッ!動かないというのは何とも惨めだなぁ?なぁ?」
「動かないのなら…それで終わり…?何を言ってる。頭はまだ動くぞ」
ゼバリゥーゼは歯で石を噛むとノルティルシュに投げつけた。投げた石はノルティルシュの左頬に当たった。
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