【創作全般】日曜日は教会の話でも……。

 実は鷲生は日本における宗教マイノリティ、クリスチャンです。

 数え方によりますが、日本人の1~4%しかいないとか。


 鷲生の実の父親が神戸でカトリックとなりましたが、だからといって鷲生が物心ついた頃には教会に行く習慣もなく。

 娘の鷲生も特に幼児洗礼を受けたわけではありません。


 ただ、鷲生にとって身近な宗教と言えばキリスト教なので。

 京都で暮らしていく中でご縁があって、とあるプロテスタント教会で洗礼を受けました。


 ところが。

 そこの牧師様ご夫妻はとても良い方だったんですが。会計係のおばあちゃんにいびられて通えずじまいになってます(牧師様に事情をお話したら、それはそれは「申し訳ない」と誠心誠意謝って下さって恐縮なんですけれど。ただ、組織が小さい教会では献金のトラブルは付いて回りそうですので、もうそこに通うのは難しいかなと感じています)。


 で。

 週末の時間が空いたのでカトリックの大きい教会の聖書講座に通うことにしました。


 何でそんな話を今回の日記にしているかといいますと。

(ネタがないってもありますがw)。


 宗教を直接テーマに取り扱わなくても、小説には小説内のキャラたちが奉じている「正義」「倫理」「愛」の概念があるはずで……。

 物語世界のリアルさに説得力を持たせるのに、有名どころの宗教の知識はあってもいいんじゃないかと思います。


 キリスト教でなくても仏教でも、世界三大宗教で言うならイスラム教でも。


 そういえば垣根涼介さんの『ワイルド・ソウル』でレバノン人が「我々は義を重んじるから」と主人公を助けてくれる場面があって印象に残っています。

 とても爽やかな、「理想の復讐」とも言うべきものを書いて下さっている良い小説です! おススメです!


 皆さんもそうだと思いますが、小説として投稿する部分というのは、書き手が想像した時空間からある程度場面を取捨選択して絞っているかと思います。


 鷲生は最近中華ファンタジー「後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符」を投稿し終えました。

 後日談の様に語られる中で、冬籟というキャラが父親の王に背いた人々にも復讐せず、平和に新しい王となる道を選びます。


 小説中には登場しませんが、冬籟にはやはり「父の仇を許せない」という葛藤があったという設定です。


 キリスト教が一般の日本人にハードルが高いと感じられるのが「汝の敵を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」などの教えでしょう。


 鷲生だって、むつかしいです。

 っていうか、今だって、いびってきた会計係を我が家では「あのバーさん」呼ばわりしてますからねw

 心が狭いんですよ、クリスチャンなのにw


 ただ、これはカトリックであれプロテスタントであれ、「人間なかなかそうは行かないよねー」という共通認識はあるので、別に「許せない人がいる」から「許しが必須のキリスト教は無理」と決めつけることはないですよ。


 例えばカトリックのシスターの渡辺和子さんも、お父様を目の前で二・二六事件で殺害され、その犯人を許せるかと言えばそれは身体が拒否をしてどうにもならなかったとおっしゃっていました。

(区切りがついたのはそれからずっと後になってからのことだそうです)。


 この渡辺和子さんのお話を、カトリックの神父様が文章にされ、そしてプロテスタントの牧師様が礼拝のお説教でご紹介されたことがあります。

(なんかややこしいですが、多くのクリスチャンにとって「ゆるし」が困難だということを示している経緯だと思います)。


 その文章、今の鷲生が読み返してもイイ内容だと思ったので、この記事の末に引用を載せておきますね。


 話を鷲生の中華ファンタジーに戻すと、冬籟だって、父を殺し、自分を亡国の王子にした相手を簡単に許せません。また、鷲生の拙作では謀反の動機は「贅沢な金銀財宝に目がくらんだ」というしょうもないものですし、再び冬籟に帰順するのも「流行を押さえた新しい金銀財宝が魅力的だった」のも理由です。


 冬籟には当然「なんでこんな相手を許さなければならないのか」という憤りはもちろんあります。


 ここら辺は拙作に書いていませんが(どこかの公募に出せるように話を削って10万字程度に抑えようとして書いたので)、その夜、冬籟は満天の星空を見上げて考えます。


 反乱で乱れた人心をまとめる新しい王には器の大きさが求められます。冬籟もそれは分かっていて、だから父の仇を許せない気持ちとの間で苦しみを感じてたまらない。


 ですが、空を見上げると北極星を中心に星々は巡っている。

 冬籟は、自分の恋人が遠く離れた地で天下を動かす大女傑として成長していることを知っています。

 ――そんな星々の女王とも言うべき彼女に相応しい男でありたい。

 だから、彼は「許せないが、許せるような大きな男になりたい」と祈り、そして復讐にとらわれない生き方を選ぶのです。

(そしてそれは、拙作の中で、毒母に育てられた彼女に過去にとらわれて生きるよりも優れた生き方ができるはずだと励ました体験と繋がっています)。


 別に冬籟がキリスト教徒だったわけではありませんが、彼の中には復讐を乗り越えることに尊さを見出す価値観はあるのです。


 ふう。

 アツく語ってしまいましたが、要するに小説の物語世界にも「正義」「倫理」「愛」などを軸にした何らかの設定がある方が書きやすいんじゃないかというお話です。


 仏教でもイスラム教でもいいと思いますが、伝統宗教の周辺には、小説を書くのに知っていて損はない論考があったりしますので、ご興味が少しでもおありでしたらそれを探求なさると執筆の糧になるのではないかと思う次第です。


 下記は、上述の通り、カトリックの神父様が書かれた文章の引用です。


「2・26事件でお父様を殺害された体験を持つ渡辺和子さんが、こんなことを話しておられた。戦後、何十年もが過ぎたある日、渡辺さんはテレビの番組に呼ばれ、2・26事件に参加した加害者側の元兵士と対面することになった。渡辺さんはそのときもう修道女になっており、神の教えに従って相手のことをゆるしたつもりでいた。だが、実際に元兵士と向かい合うと、コーヒーカップを持つ手が震えて止まらなかったという。そのとき渡辺さんは、自分がまだ心の底で相手をゆるせていないことに気づいたそうだ。

 これは、もっともなことだと思う。暴力や裏切り、ひどい言葉などによって相手から深く傷つけられたとき、相手を簡単にゆるせるものではない。心の傷がひどく痛んでいるときに、傷つけた相手のことをゆるせるはずがないのだ。傷つけた相手を忘れることも、怒りや憎しみが湧き上がってくるのを止めることもできない。それが人間の限界だと、素直に認める必要があるだろう。


 わたしたちには、自分が受けた心の傷を癒す力がない。それゆえ意思の力だけで相手をゆるすこともできないのだ。相手をゆるせない自分を責めるのは、むしろ傲慢と言っていいだろう。ゆるしは人間の力を越えたことであり、むしろ神の領域に属している。謙遜な心で、「どうか、心に受けた傷を癒してください。いつか相手をゆるすことができますように」と祈りたい。」


(2018年03月23日の心の糧 ゆるし・いやし

 片柳 弘史 神父

 https://tomoshibi.or.jp/radio/2018/03/23.html)

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