アムステルダムの冬

「もしもし」

 耳にあてたスマートフォンから聞こえてきたのは、やけに聞き覚えがある女性の低い声だった。

 僕はベッドの上で仰向けになって目を閉じたまま、寝ぼけた頭でなんとかその声の持ち主に思いあたった。

「久しぶり」と僕は言った。それ以外に何を言えばいいのかわからなかった。

「久しぶり」とその声は返した。どこかうわずった調子だった。


 別れ話を切り出されたのは、その冬でいちばん寒い日だった。寒いのに、雪さえも降らなかった。外気にさらされた皮膚がきりきりと痛むだけの、甲斐のない寒さだった。

「僕がオランダに行くから?」と僕は彼女の話がひと段落するのを待ってからたずねた。

 僕たちは渋谷の駅ビルの一角にある、ぱっとしないカフェでぱっとしないコーヒーをはさんで座っていた。窓ガラスの外では人々がそれぞれの人生を早足で急いでいた。

「それだけじゃないわ」と彼女はコーヒーカップを見ながら言った。ターコイズブルーのマニキュアが塗られた両手の指がコーヒーカップをやさしくなぞっていた。

 それもあるけど、と聞こえたような気がした。でもそれだけじゃない。そうだろうとも。きっとさまざまな要因が相互に干渉しあいながら、複雑で絶対的で得体のしれない論理にしたがって、彼女の心のなかでその決断を導いたのだ。

 そうとなれば僕にこれ以上言うこともなかった。

 僕はまた窓の外に目をやった。マフラーから覗く幾対もの眼は、目的地への最短経路を計算しているかのように無機質だった。

 「あなたのことはきらいじゃないけど」と彼女は思い出したようにつけ加えた。

 僕は逆接のその先を待った。しかしレトリックは僕たちをどこへも連れてはいかなかった。彼女の台詞はレイモンド・カーヴァーの短編小説のように、意味ありげにぷつりと途切れていた。

 そのちょうど一週間後の土曜日、東京でその年の初雪が降った。


「四人で泊まれる部屋を探しているの」と彼女は電話越しに言った。

 あの四人で旅行をするんだ、と僕は思った。彼女が昔から仲良くしている友人たち三人の顔がぼんやりと浮かんできた。彼女の顔だけがはさみで切り抜かれたように思い出せなかった。

 僕は白い天井に向かって何度かまばたきをしながら、自分の部屋を頭の中で俯瞰してみた。一人用の物件ではあるものの、オランダの家がほとんどそうであるように、きわめて広々としていた。間取りでいえば1LDK。ベッドに二人、ソファーに一人、もう一人は寝袋を用意するかベッドに詰めるかすれば、なんとか入りそうだった。

「僕の部屋でよければ、四人で泊まれると思う。すこしせまいかもしれないけど」と僕は言った。

 返事はなかった。

「僕は、そのあいだ僕は、適当にどこかに出かけておくよ。友達の家とか、ホテルとか。気にしなくていいんだ、本当に」

 やはり返事はなかった。僕はスマートフォンを持ちかえて反対側の耳にあてた。

「ただ、僕はいまアムステルダムに住んでいるんだ。すこし遠いかもしれない。そうだ、そもそも四人でどこに行くの? それがわからないと意味がないか」

 そのとき、彼女がいたずらっぽく笑った。まるでこの一連の出来事はわざと僕を困らせるためのものであるかのように。そして彼女の意地の悪い笑顔が脳裏に浮かんだ。

 夢だ、と僕は突如として悟った。彼女は素直で真面目で、決してサプライズやからかいの類を好まなかった。

 だからこれは夢なのだ。彼女はどこへもいかないのだ。


 意識が途切れ、そして戻った。

 僕は念のため、目を閉じたままスマートフォンをつかんで耳にあててみた。スマートフォンの感触がいやにかたかった。

「もしもし」と僕は言った。

 返事はなかった。

「久しぶり」と僕は言った。

 やはり返事はなかった。

 僕はじっと耳を澄ました。綿々と続く雨のホワイトノイズが、窓の外から包みこむように聞こえていた。

 またアムステルダムの冬がやってくるんだ、と僕は思った。

 僕はスマートフォンを放りだしてもう一度眠りにつこうとしたが、なかなか眠れなかった。

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