口内炎
「しぬってどういうこと?」
「空を飛ぶということ」
「ぼくはそらがとびたい」
「それならあそこのビルの屋上から飛び降りればいい」
少年は窓ガラスに乱反射しそうなほどに目を輝かせながら、ビルに向かって一目散に走った。入口に吸い込まれてからしばらくすると屋上に姿を現し、そして深くしゃがんでから両の手を大の字に広げて飛び降りた。
僕は昨日にできた口内炎を舌で舐め回しながらその一部始終を見ていた。
お手洗いから戻ってきた女性は少年の姿が見当たらないとわかりやすく狼狽した。顔の近くをうっとうしく飛び回る蝿を捉えようとするように頭を何度も振り回し、どういうわけか再び早足でお手洗いに向かった。僕も家の中で失くしたワイヤレスイヤホンを探し回っていたときについ冷蔵庫の扉を開けたことがあるので、彼女を蔑むことはできない。しかしもちろんそれは徒労に終わり、彼女はすっかり憔悴しきった表情で僕に話しかけた。
「あの、すみません、息子を見ませんでしたか? 五歳の男の子です」
「はい、見ましたよ」
「本当ですか!」彼女は目尻のしわを伸ばし切る勢いで目を見開いた。両の瞳はマット加工された化粧箱のように輝きがなかった。「それで、息子はどちらに?」
「空を飛びました」
「え? どういうことですか?」
「ですから、空を飛んだんです」
「は?」彼女は文字通り開いた口が塞がらず、頬がぴくぴく震えていた。そして遅延性の毒が効いてくるように怒りをあらわにした。「悪ふざけでしたら結構です。私は息子のことが心配で探しているんです。もう一度聞きますが本当に息子を見かけましたか?」
さっきから喋りすぎたせいか、口内炎がじんじん痛んだ。彼女が喋っているあいだにアイスコーヒーを口に含んでみたが効果はなかった。むしろ飲み込んでしまうとさらに痛くなった気がした。だから僕はだんだん腹が立ってきた。
「いいですか? 僕はあなたの息子さんが空を飛ぶのを見ました。悪ふざけでも何でもありません。息子さんは空が飛びたい。僕は口内炎が痛い。それでいいじゃないですか。僕だって口内炎になりたくてなっているわけじゃないんですよ。でも現実なんてそんなものなんですよ」
一息で言い切ってしまうと、僕はまたアイスコーヒーを口に含んだ。彼女は今にも泣き出しそうな表情で僕を睨みつけると、ウェディングドレスのトレーンを見せつけるように大げさに振り向いて店の外に出た。
彼女の姿が見えなくなったのを確認してから僕は口の中でぬるくなったアイスコーヒーを飲み込み、ウェディングドレスよりも大きなため息をついた。今日は本当についてない。さっさと勘定を支払ってから店をあとにした。
帰り道はパトカーと救急車のサイレンのアンサンブルが鳴り響いた。それはレクイエムというよりはアレルヤに聴こえた。空を飛ぶことは人間として最も喜ばしいことであり、空を飛ぶ瞬間は命が最も輝く瞬間である。しかし生きるということは、この忌まわしき口内炎を延々と舐め回すことに相違ないのだ。
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