今年の紫陽花はひときわ綺麗だね
すべてを失った夜、僕は街外れの小高い丘の上に座っていた。僕は埃をかぶったオルゴールのように孤独だった。
「まだ紫陽花だって咲いていない」と月が言った。
「紫陽花なら去年も見た」と僕が言った。
「今年はひときわ素敵な紫陽花が咲くかもしれない」
「今年はひときわ残忍な台風がやってくるかもしれない」
「誰にだってわからない」
「それは残念だ」
月は星座のかたちを歪めてしまいそうなほど大きなため息をついてから言った。
「それはどうするの? いまならまだ間に合うかもしれない」
そう言われてはじめて、僕は自分の手に握られたくしゃくしゃの紙切れに気がついた。おとぎ話のように遠いむかしに、僕が書き損じた手紙だった。
「どうだろうな。たとえ届けたところで、もう何もかもがあの頃とは変わってしまった」
「ハレー彗星だってまた戻ってくる」
「ボイジャー号はもう戻ってこない」
「悲観的なのね」
「現実的なんだ」
僕は文字の書いてあるほうを地面に押し付けるように紙を広げて、上着のポケットからライターを取り出してそれに火をつけた。紙は世界が終わっていくように音も立てずにまぶしく燃えた。僕は目が痛むのにもかまわず、文字たちが世界から永遠に失われていくようすを見つめていた。
「たばこは吸わないの?」
「もうやめたんだ」
「何もかもが変わったのね」
「そういうことだ」
手紙になりそこねたものが燃え尽き、僕はひとりになった。僕は人類が滅亡したあとの大地を覆うがれきの山の中にあるオルゴールのように孤独だった。
「それじゃあ、もう行くよ」と僕は言った。
月はもう返事をしなくなった。でも月はきちんと聞いているということが僕にははっきりとわかった。だから僕はひとりごとのように続けた。
「もし今年の夏にひときわ素敵な紫陽花が咲いたら、彼女に伝えてくれないか。今年の紫陽花はひときわ綺麗だねって」
やっぱり返事はなかった。
僕は用意していた台の上に立ち、木に結んでおいた縄に首を通した。僕は手紙の内容を一字一句あたまの中で復唱し、それがもうこの世には存在していないことをたしかめた。
「それと、いままでありがとう」と僕は月を仰いで言った。
月の光は羊水のように街をやさしく包みこんでいる。その中で彼女がぐっすり眠れていることを、僕は祈る。
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