自己陶酔という名の欺瞞

 行きつけの喫茶店で他人と一緒にコーヒーを飲むのはそれが最初で最後だった。

「君は愛について考えたことはあるか?」

「もちろんあります」

「でも愛というのは欺瞞だ」

「僕にはそうは思えません」

「では何か言ってみせよう。愛について君が知っていること。何でもいい」

「そうですね。愛というのは、たとえば相手のことを思うと心があたたかく満たされたり、相手に自分のすべてを捧げたいと思えたり、そういった感情、あるいはお互いにそのような感情を抱き合っている関係性、のようなものではないでしょうか」

「それは具体例だ。感情、関係性、ひとまずそれらは欺瞞ではないということにしよう。でも問題は愛だ。私は愛が欺瞞だと言っているんだ」

「それでは正義や希望だって欺瞞になるではないでしょうか」

「焦るでない、若人よ。なにも抽象概念すべてが欺瞞だと言っているのではない。もったいぶってすまなかった。私はこう考えているのだ。つまるところ愛というのは、自己陶酔という名の欺瞞なのではないか、と」

「それでは試してみましょう」

 僕は小さなカップに残っているコーヒーを一気に飲み干してから、机の上に置かれた包みの中できまりが悪そうにむずむずしている拳銃を手に取った。ちょうど隣のテーブル席には夫婦とベビーカーに乗った赤子の家族連れが、よく晴れた日曜日の昼下がりにふさわしいひとときを過ごしていた。僕は女性の席の背後にまわりこみながら安全装置を外し、その柔らかい首に腕をかけて蟀谷こめかみに銃口を当てた。

「本物の銃です。妻を殺されたくなければお子さんを殺してください。でなければ引き金を引きます」

 波ひとつない水面のように世界が静まり返った。女性は反射的に両手を僕の腕にかけたまま、体をこわばらせているのが肌を通してわかった。男性は目の前の光景をしばらく凝視してから複雑なもぐらたたきをするように目を泳がせ、赤子のほうをちらっと見てからまた視線を正面に戻し、そのまま動かなくなった。代わりに脳が急速に回転している音が聞こえてきそうだった。

「両手で首を絞めれば殺せると思います。十秒以内に始めてください」

 それでも彼は動かなかった。赤子は両親の気を引こうとして両手をばたばたさせながら喃語を発していた。これだから赤子は嫌いだ。愚劣かつ傲慢で、自分が世界の中心であると信じて疑わない。

 心のなかで九まで数えるとともに僕はため息をついた。その瞬間、男性は獲物の魚に狙いを定めた大鷲のように机越しに身を乗り出して僕に飛びかかろうとした。僕は身を引きながら引き金を引いた。きゃーという声が胸元から響き、動画の編集ミスのようにぷつりと途切れた。そして僕はすかさず両手で拳銃を握りなおし、男性と赤子を二発ずつ撃った。

 最後の薬莢やっきょうが夏の終わりの風鈴のような音を立てながら地面に落ちたのを聞いてから、僕はひときわ深いため息をついた。そういえば今年の夏はまだ海を見ていないなと思った。

 気がつくと老人がすぐそばに立っていた。

「見ていましたか?」

「ああ」

「彼は子を殺しも、妻を見殺しにもしませんでしたよ」

「それが君の言う愛なのか?」

 僕は言葉に詰まった。その瞬間、僕はその質問にどう答えればいいのかまったくわからなくなってしまった。三つの死体にどれだけ目を凝らしてみても、そこには愛の痕跡さえ存在していなかった。僕は漆黒の夜の海で溺れているように、概念の方向感覚を失っていた。

「ところでひとつ気になったのだが、どうして赤ん坊ではなく婦人のほうを人質にしたのだろうか?」

「懐で泣きわめかれてはたまったものではありません」と僕はかろうじて答えた。

「はっはっは。そうか、そうか。君、私と一緒に来ないか? 愛以外のすべてを保証しよう」

 象のように重い老人の笑い声が響く店内で、僕が手にかけた家族連れ以外の客も店員も、みな眠ったように倒れていた。

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