第14話 魔王、襲来

 真っ暗な夢の世界は、どこまでも奥行きがあるように見えて、どこにも身動きができないような気がする圧迫感があった。

 正面、紫の炎は、ゆらゆらと燃え続ける。

 その炎の主――魔王ニグトダルクは、夜々子の正面に立ち、見下ろして言った。


「なんのために、おまえは生まれてきた」


 威圧的な声。

 夜々子は声も出せないまま、一歩、後ずさった。

 下がった分だけニグトダルクは詰め寄り、しゃべり続けた。


「こんな不完全極まりない状態で、よく生まれてきたものだ。

 ろくに魔法も使えず、記憶の継承すらままならず、なんのためにこの世界に生まれたのかも忘れ、のうのうと生きているとは」


 夜々子は後ずさる。

 ニグトダルクは詰め寄る。

 燃える手が伸ばされて、夜々子は背中を向けた。


「やだ……やだ!」


 夜々子は走った。

 走っても走っても、ニグトダルクとの距離は開かない。

 走れているのかすら分からない。足をどれだけ動かしても、一面の闇の景色は変わったりしない。

 その背後、ニグトダルクは張りつくようにぴったりついて、呪いのように言葉を吐いてくる。


「なんのために生きている。なんのために生まれてきたと思っているのだ。

 思い出せ。忘れるなど許さぬ。なんのために、おまえは魔王となるのか」


「やだ! やだ! やだ!」


 夜々子は走り続けた。

 走れているのか、よく分からない。

 足は必死で動かしても景色は変わらず、もしかしたら、ただ同じ場所でもがいているだけなのかもしれない。

 恐怖で涙があふれて、息が詰まった。

 紫の炎が辺りを取り囲んできて、夜々子はあらがうように叫んだ。


「わたしは黒井夜々子だ!! 魔王ニグトダルクじゃない!!

 わたしは黒井夜々子なんだ!!

 お父さんとお母さんから生まれて、お兄ちゃんがいて、今年中学に入学した、普通の中学生なんだ!!」


 ニグトダルクの腕が、夜々子をつかもうとした。


「いやだッ!!」


 夜々子は振り払った。

 そうした夜々子の腕に、紫の炎が燃え移った。


「やだ……!」


 夜々子は青ざめ、震え上がった。

 炎は腕をつたって、全身に燃え広がった。

 それはちょうど、やけど跡のような肌荒れに沿って。


「やだ!! やだ!! 助けて!! 誰か、助けて!!」


 紫に包まれる。

 熱にのたうち回り、呼吸もままならなくなりながら、夜々子は手を伸ばした。


「昼介くん……!!」


 伸ばした手が――手に、届いた。


 夜々子は目を見開いた。

 光。

 闇の向こうから差し込んでくる、光。

 そこから伸びた手が、夜々子の手をつかんで。

 その手の向こう、小柄な体、もじゃもじゃのくせ毛、彼は夜々子を見つめて、名を呼んだ。


「夜々子……!!」


 闇がはがれる。

 炎がはがれる。

 パズルのピースが崩れるように、夜々子にまとわりつくものが引き離された。

 背後でニグトダルクが、何か言った。

 それが夜々子の耳に届くことはなく、光の中へ、引かれていった。




 窓の向こうから、ゆるく朝日が差し込んでいた。

 夜々子はうっすらと目を開けて、自室で目覚めたことを理解した。

 枕の横で、スマホがけたたましく震えていた。

 夜々子はスマホを手に取り、電話に出た。


『夜々子!? 大丈夫か!?

 今さっきニグトダルクの気配を感じて、夢の中で頑張ってそっちに行こうとして、そしたらなんか夢がつながってそっちに行けたっぽいんだけど、おれさっきそっちに行けてたよな!?

 そっち今どうなってる!?』


 昼介の声。

 それは日差しより吸い込んだ空気より何より、夜々子の芯に染み込んでいった。

 夜々子は息とともに、言葉を吐き出した。


「大丈夫。大丈夫だよ。昼介くん」


 目の上に手の甲を置いて。

 その隙間から涙を流しながら、口元は、ほっとした笑顔で。


「ありがとう……!」




   ◆




「新しい魔法の練習をしたいって?」


 放課後。河原。今日も雨。

 薄暗さの中の橋の下で、夜々子は昼介にうなずいた。


「ちょっと、思いつきで、試してみたいことがあって。

 全然魔物とか魔王とか、関係ないんだけど」


「いいよ、何が役に立つかも分かんないし。やりたいことはなんでもやってみよう」


「あ、あの、じゃあ」


 夜々子はもじもじして、言った。


「目、閉じてもらって、いい?」


「ん? こう?」


 昼介は言われた通り、目を閉じた。

 そのまましばらく突っ立っていて、そして。


 ちゅっ。


 昼介は思わず目を開けて、ぱちくりさせた。

 その正面、至近距離に夜々子、ゆでだこみたいに真っ赤になって、うつむいた。


「あ、あの、魅了チャームの魔法、です。

 くちびるに、その、魔法陣をつけて、あの、わたしに対して、ドキドキさせる、えっと」


「え、あ、お、おう?」


 昼介は、自分のくちびるに触れた。

 理解が追いつかない。

 今さっき、くちびるに押し当てられた感触。

 そしてくちびるに残る、魔法陣ではなく、かすかなリップクリームの香り。

 体温が、脈拍が、思い出したように上がっていく。


「その、初めて使う魔法なので、そして未熟な魔法なので、あの、効果のほどは保証はなく……」


 夜々子が何か言っている言葉も、うまく耳に入ってこない。

 夜々子の言葉は、一字一句聞き漏らしたくないのに。

 ただ全身の神経が、くちびるの余韻に向いている。


「あの、やっぱりちょっと、慣れないことして、無理、これ、恥ずかしくて、助けてくれたお礼のつもりだったけど、あの、ごめん、今日はもう帰るね!」


 夜々子はもう顔も合わせられず、荷物をまとめて、隠れるように逃げ帰った。

 その耳がやたら赤かったことだけ、昼介の目に焼きついた。


「お、おう……?」


 昼介はもう言葉も忘れ、夜々子がいなくなった後も、ぼうぜんと立ちつくしていた。

 今日も雨。そして心臓が、ドキドキしている。

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