第7話 心臓がドキドキする

 夜々子はおもちゃ屋の裏手へ、そこからもう少し先へ。

 建物と建物の隙間、広くはないが動き回れないほど狭くはない。

 そして競技会の音や声はもう遠く、きっと騒いでも気づかれずに済む。


 夜々子は息を整えた。

 心臓がドキドキする。

 それはいつか感じたドキドキと違い、いやな感触だった。

 落ち着く間もなく、目の前、魔法陣。


 名称、コーリングスカイ。

 形状は木の枝でできたニワトリに近い。

 雷雲と竜巻を呼び寄せ、土地の栄養を吸い上げ、人の住めない環境を作り上げる。

 本来のサイズは樹齢千年の大樹にだって見劣りしないが、今は道端のタンポポくらいの大きさ。


 夜々子は、祈るようにつぶやいた。


「大丈夫……大丈夫、やれるよ。魔法、練習したから」


 昼介と一緒に。

 だから――ごまかしようもない、昼介と一緒に頑張ったんだから――勇気がわいてくる。


 夜々子は両手を前に出して、それぞれの指で円を描いた。

 二種類の魔法陣が、浮かび上がる。


服従サブジュゲーション! それから、闇焔ダークフレア!」


 服従の魔法陣が飛び、それを追いかけるように暗い色の炎が放射された。

 魔法を受けてコーリングスカイは動きを止め、そのまま炎に包まれた。


「はあっ、はあっ……やっ、た?」


 夜々子はそろそろと近づいた。

 燃える炎の勢いは、すぐに弱まった。


 コーリングスカイ、健在。黒い雲に包まれて。


 状況を順に説明すれば、服従の魔法が当たる前に、魔物は雷雲を呼び始めていた。

 その雲が魔物の体を覆い、たまたま炎をさえぎる役割を果たしていた。

 タイミングが悪かった、それだけのことだ。

 ただ、それを夜々子が理解する、そのタイムラグは致命的だった。


 コーリングスカイは竜巻を呼び寄せた。

 それは夜々子を吹き飛ばすような強さではなかった。

 ただ夜々子をひるませ、尻餅をつかせるくらいはできた。


「はあっ、はあっ」


 息が上がる。

 あせり、それから強い魔法を使った疲れ。

 どうにかしないと、そう考えればなお息苦しくなる。

 木の枝のニワトリは、そんな夜々子へと、のそのそと近づき。

 地面についた夜々子の手を、木の根の足で踏みつけて。

 荒れて弱って傷つきやすい夜々子の肌から、木の根は血を吸い上げ始めた。


(昼介くん)


 思い浮かぶ。あのきらきらとした笑顔。


 呼べば、来るだろうか。

 来る気がする。

 だから、呼べない。

 昼介には、光の中で生きていてほしいから。


 光の剣。

 魔物、切り裂かれて。


 夜々子は、ぼうぜんと見上げた。

 どろんと煙に変わったコーリングスカイの向こう、右手に光の剣を握る、昼介。

 その顔は、笑っていない。


「なあ、夜々子」


 昼介はひざをついて、夜々子に顔を寄せた。


「もっとさ、頼ってくれてもいいじゃねーかよ」


 昼介のその顔は、怒っていない。

 せつなげだった。


「おれは、夜々子と一緒に、なんとかしようと思ってるのに。

 ひとりぼっちで頑張られたら、さみしいぜ」


 夜々子は、息が詰まった。

 胸がきゅうっと、痛くなった。


「あ、あの、ちが、違うの、昼介くん、ごめん、ごめ」


 言葉がうまく出ない。

 怒られるより、嫌われるより、昼介にこんな顔をさせる方が、つらかった。


「ごめん、昼介くん、ごめんなさい……!

 そんな、そんな顔をさせて、ヨーヨーだって、ちゃんとやれなくて、ごめん……!」


「夜々子」


 昼介は、夜々子をまっすぐに見つめた。


「謝らないでくれよ。おれは、おれが夜々子といたいと思ったから、夜々子を誘ったんだ。

 悪かったのは、なんとかなると思ってのんきにヨーヨーやろうとしてた、おれの方だよ」


「そんなの!」


 夜々子は、泣きながらわめいた。


「そんなの、昼介くんが悪いって思う方が、おかしいんだよ!

 わたしが魔王だからこうなってて、昼介くんがわたしを守る必要なんて、何もないのに!

 昼介くんが、昼介くんのやりたいことをできないのは、おかしいよ……!」


 夜々子は、泣きじゃくった。

 傷ついた手の甲で涙をぬぐって、血と混じって、にじんだ。

 昼介は痛みをこらえるような目で夜々子を見て、考え込むように目を伏せて、それから意を決したように、告げた。


「おれは、おれがやりたいことをやれてないなんて、思ってないけど。

 もし……夜々子がおれに負い目を感じてて、それをおわびしたいって思うんなら。

 そうだな、来週の日曜も、予定、開けといてくれないか?」


 夜々子は、昼介の顔を見た。

 昼介は目をそらしながら、言った。


「デート一回。

 それで、チャラってことにしようぜ」


 夜々子は、目をぱちくりさせた。

 夜々子が何か言う前に、昼介は立ち上がり、背を向けた。


「……よし! 帰ろう!

 今日は終わり! 帰って寝て、明日また学校だー!」


「え、あ、え、あえ?」


 昼介はたったかと歩き出した。

 その耳は、もじゃもじゃ髪でも夜々子の目から隠れきれないほど、赤くなっていた。

 困惑する夜々子を置き去りにしようとして、立ち止まって、あーとかうーとかうなってから、戻ってきた。


「離れんなよって言ったの、おれだもんな。

 絶対置いてかないから、ほら、行くぞ」


「あの、え、あ」


 昼介は今もまだ、顔を赤くして目を合わせない。

 夜々子も混乱の極みで、だから突き出すように差し出された昼介の手を、自分の肌の出血もざらつきも気にする間もなく、つかみ取った。


「さあ! 帰るぞ! 行くぞ!」


「あ、あ、あのっ」


 昼介は夜々子の手を引いて歩く。

 それは早足で、でも夜々子がついていけなかったり手を痛くしたりするようなペースでは決してなくて。

 夜々子より背の低い昼介の、その手は体格とは裏腹に大きくて。

 夜々子はただ、言われた単語を繰り返すことしかできなかった。


「デート……!?」


 つないだ手が、妙にあたたかい。

 それはさりげなくかけられた治癒ヒールの魔法のあたたかさだった。

 そしてきっと、それだけではない。


 心臓がドキドキする。

 どうやらこのドキドキは、すぐには止まってくれないらしい。

 ひとつ言えるのは、そのドキドキは、さっき魔物と戦ったときのような、いやなものではない。

 それは確かだ。

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