(4)

 窓の外には夜景があった。

 薄暗い路地の向こうで、無数のネオンと看板が光っていた。ピンクやオレンジやシアンの電灯のそれぞれが、一番の眩しさを競り合い、色の違いを主張しようとしている。けれども、そのどれもが事切れる時を恐れていて、疲労と寂しさで互いに似通い合ってしまう。

 その夜景の色は、この街のものでなければ、この窓から見えるべきものでもなかった。


 タマの部屋の窓から見える景色は、すぐ側にある理髪店の、レンガを模したタイルの壁に遮られているはずだった。あたしたちがこのアパートへ越してきたときに、珠は南向きの明るい部屋をあたしに譲って、日の入らない部屋は本に良いからと、北向きで景色の冴えないこの部屋に家具を持ち込んだ。

「わあ、ネオンがいっぱいだあ! これっていわゆる『夜の街』?」

 あたしと同じ顔をした少年――冥王は、カーテンを開け放ち、その先に目を疑う世界が広がっていることを示していた。

ヨミ、案内してくれる?」

 冥王は当たり前にあたしの名前を呼ぶと、しなやかな動きでカーテンをつまんで、笑う頬の横で束にしてみせる。彼の振る舞いは、大人を前にしてはしゃぐ子供のようだったけれど、浮かべる笑みに含まれているものは、単純な幼稚さだけとは思えなかった。

「案内って、あたしはそれどころじゃない。だいたい、あなたが本当に……死後の世界の王なんだったら、どうしてこんなことになってるのか教えてよ」

「こんなことって?」

「……窓の外が」

「恋人が死んじゃったこと?」

 あたしは冥王の目を睨んでいる。シーツの上の、すぐ側に眠る珠は、視界の外にある。

 肌寒かった。

 この部屋の空気には、人間一人分の、あたしの体温しか存在していなかった。

「そうだねえ。この子が今日のこの時に死んじゃったのは、きみによることかもしれないし、もっとたくさんのことによることかもしれないね」

「……あたしのせいでもあるの?」

「そ。辛い? 悲しい?」

 冥王はカーテンの束を放ると、あたしの目の前に躍り出た。見知った緑色の瞳が、何の同情もためらいもなく、こちらを覗き込んでくる。

「泣いてるね、詠。このままだと……きみの体は、嵐になっちゃうかも」

 目の前の瞳を輝かせているのは、きっと好奇心と加虐心だ。その光の滲みを睨みつけながら、あたしは舌の付け根に留まった唾液を飲み込もうと、喉を苦しくこわばらせている。

 この少年が目の前に現れてから、少しずつ体に違和感が現れていた。それは驚きや緊張や、この涙の熱によるもののはずなのに、今まで感じてきた感覚とは違うことが分かってきて、ますます意識が蝕まれる。

「真っ白でぐちゃぐちゃの塊になって、嵐になって、街のひとつふたつを飲み込んじゃうかもしれないよ?」

 珠の資料で見た、人の喉の解剖図が思い浮かんだ。そうして、同じような図を教科書でも見ていたことを思い出す。

 不健全な人間は災禍を招き、精神の変質は肉体に及ぶ。変質した精液は白い混沌の塊となり、この世のあらゆる物質を破壊する風や波や炎となる――それが嵐の正体だ。学舎で国語を、社会科を、保健体育を習いながら、あるいは絵本や歌、遊びや説教の中で、何度も教えられたことだ。

 冥王は身を翻し、異質な景色を映す窓辺へと向かう。

「この時代は嵐が減っているみたいだけれど……人の精はいつだって脆くて、不安定なものだからね」

 五十年以上前の大災禍は、世界中の多くの人が不安に駆られて、あちこちで連鎖的に嵐が起きたことが原因だった。

 世界が北冥ほくめい南冥なんめいに分かれてしまったのは、その時からだという。

 大災禍で広がった白い混沌の炎が、収まりきれずに各地の海で燃え続け、海底から上空までを塞ぐ蜃気楼となって、地球を帯状に取り囲んでいる。その蜃気楼の帯――海市かいしが、人や物や通信の行き来を困難にしていた。あたしたちの暮らす北冥の黒金くろがね半島、その西の大紅だいこう嶺野レーヤ屋楼府ヤロフの国々は、南冥の平洋へいよう諸国と断絶されている。

 それだけ嵐と呼ばれる災禍について学んできたけれど、あたしはその存在を実感したことなんてなかったし、きっと誰もが白黒写真や水墨画の、褪せた時代の話だと思っているはずだ。

 自分が人災として記録される未来を、誰が想像したがるだろう。

「ぼくは、嵐がもっと増えたら素敵だなって思うの。それで世界中がめちゃくちゃになって、そのうちなんにも無くなったら、素敵じゃない?」

 冥王は窓辺に頬杖をついた。不可思議に輪郭の揺らめく白い頬が、まるでアイシャドウのパレットのように、ネオンの光をラメにして散りばめている。

「ぴかぴか光って、眩しいねえ」

 煌めく横顔のラインを、他人の知るあたしの線を見ながら、意識が傾いていくのに抗う。

 あたしの体は、この冥王が言うように、嵐になりかけているのだろうか。

「ねえ、詠。もしもきみが、この現実を変えられるなら……ベッドで珠にキスをしていた、ほんの少しだけ昔に戻って、いつも通りの一晩を過ごせるとしたら?」

「え……」

「運命を、変えたい?」

 冥王は窓を開け、振り向かないままそう言った。夜の街の音楽と人の声が、遠くの方から聞こえてくる。

「……かえ、たい」

 声を出すと、息が苦しくなった。喉が痛んで、詰まって、熱くなっている。

「それじゃ、ぼくが旅に連れてってあげる!」

「たび……?」

 冥王が窓枠に膝をつき、そのまま外の路地へと飛び出す。思わず立ち上がって追おうとすると、酔った時のように大きなめまいがした。

「そう! きみの思い出、きみの過去への旅だよ。このネオンの街も、きみの辿った道の一つでしょ?」

 冥王の背後には、見覚えのあるいくつもの看板が光っていた。その文字たちを見ていると、だんだんとこの街のことが思い出されてくる。酒や香水や煙草のむせる匂いと、その空気に触れる肌が感じていた、傷を刺すメンソールのような危うさ。

「これから行くきみの思い出の世界には、当時のきみの輪郭線……体の縁取りのようなものが残ってるんだ。きみがそのフチに触れれば、運命が少しだけ変わる。珠は今日死ななかったことになるかもしれないし、きみもこれから嵐にならずに済むかもしれない」

 不安定になる体の感覚に支配されながら、あたしの胸は冥王の言葉に動かされていた。その情動を、残された理性が打ち消そうとしている。

 彼はきっと、人間の味方をする神や精霊といったものではない。大災禍のような嵐で世界が滅亡することを望んでいる、魔神や悪魔のような存在のはずだ。

 そんな彼が今、あたしに救いの手を差し伸べようとしていることは、冥王という存在の奇怪さ以上に不気味だった。

「……あなたは、なんで、こんなことを」

「ぼくにも目的があるよ。きみがフチに触れて、それで運命がどう変わるのか、全く予想がつかないんだ。もしかすると運命はもっと悪いものに変わって、きみは今よりももっと悲しんで、怒って、嘆いて、絶望して……大きな大きな嵐になるかもしれない」

 路地の薄明かりの中で、冥王は静かに笑う。

「それこそ、北冥の全てを飲み込むくらいのね。ぼくはそれを期待してるの」

 あたしの目線は、自然とベッドの上へ向いていた。

 珠は静かに眠っている。冥王の告げた彼の運命は、まだ信じきれずにいる。

 だからまだ、あたしは絶望していない。

「きみは、きみの世界を変えるために旅立つ。ぼくは、きみが世界を壊すことに賭けて案内する。どう?」

「……あたしは、いかなくちゃ、いけない」


 ふらつく体を歩かせながら、珠の胸に布団を掛ける。

 長くなるかもしれない夜も、これなら暖かく明かすことができる。

 あたしは窓辺に向かい、夜の街へと身を乗り出した。

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緑の縁 野原小路 @rukuisari

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