(3)

【彼が私と共に、たとえ褥の上に在ったとしても、私の最奥を見ることがないのは知っている。それでも私は、彼の窓を、深く深く覗き込むことを願うのだ。】


 タマの書いた小説で、キスの見せる幻覚が窓に喩えられていたことを思い出す。

 窓は外の世界を覗くためのもので、キスもそれと同じだった。人間の喉が出す精液だけに、魔法のような力か、特殊な成分か何かが入っていて、触れた人に持ち主の心象風景を味わわせる。

 それが、神様のような不思議な存在の意図なのか、ただの偶然なのか、考えてみても分からない。だけど、あたしはそのことを見つめ直すと、まるで人類の行方がどこにもないような気がして、思考の出口を見つけられなくなって、得体の知れない冷えた孤独を感じてしまう。

 そうしてその度に、キスが人間同士で一番深く触れ合うためのやりとりであることを思い出して、安心したり、恐ろしくなったりする。


 あたしたちは循環していた。

 お互いの足に掛け布団が絡まって、引き寄せながらくすぐりあっている。珠はあたしの口から出た精を含んで、その刺激の中で眠気に浸りたがる。あたしは眠たげにする珠の、耳元や肩を撫でる。そうすると珠は少しだけ目を覚ましたり、また微睡まどろんだりを繰り返す。あたしはそれを眺めて、顔を熱っぽくする。

 ときどき、その役を交代してみる。あたしが珠の首元をくすぐって、唇を貰う。

 珠の精の見せる夢は、ガラス玉の内側の世界だった。果ての見えない冷えた空間に、凛とした音叉の音が鳴り響いている。空気の代わりに満ちる透明な固体は、何の混じりけもなく、どこまでも澄んでいて、泣く寸前のときのように張りつめている。

 あたしはいつも、その光景を悲しく感じて、少ししか幻覚の刺激を受け止めることができない。珠から一口貰った後は、シーツの上に体を広げて、元の役に戻る。珠の方も、あたしのうなじの刈ったところを撫でたり、額を触れ合わせたりしながら、眠たくされる時間を過ごしたがる。


「緑色が見える」

 ひとときの微睡みから覚めて、珠が囁いた。枕の隅に沈み込んだ顔と目が合う。珠には、あたしの緑色の瞳が見えているんだろうか。目の前で、レモンイエローの瞳が揺れている。いつになく、切なそうな光を灯して。

「レモンの色が見えるよ、珠」

「……ごめん」

 唐突に、怯えたような声で、珠が謝った。

 どうして謝るのか、理由は分からなかった。だけど、すぐに聞き返すことはためらわれた。珠が何か、踏み込んではいけない心をしているのが分かる。自分の胸が大きく脈打つのを感じる。珠の目の端が潤んでいることに気づく。暗い色の唇が細かく震えている。

「どうしたの?」

 問いかけた途端、珠があたしを強く抱きしめた。

 視界が珠の胸元で覆われて、表情が見えなくなった。背中に回った手に、不安定な力が込められているのが分かる。

「珠?」

 応える声は無い。珠の胸の中で、自分の鼓動が速くなっていくのが聞こえる。その苦しさをこらえていると、体を抱きしめていた腕が、あたしの肩の上でうなだれた。寝間着の袖がうなじに触れて、そのまま動かなくなる。あたしが肩を動かすと、袖はその動きのまま首筋に擦れて、落ちていく。

 珠の体が、脱力している。

 人が死ぬときのように。

「珠、珠? ねえ……」

 思わず起きあがって、珠の顔を見る。濡れて束になった髪の合間で、薄く開いた目がこちらを見ている。

ヨミは……、ずっと」

 言葉が絞り出される。その声の、震えるリズムと一体になって、瞳の光が揺れ続けている。


 あたしは、抱きしめないといけない。

 珠の熱を守らなくちゃいけない。

 体が動かない。声も出ない。

 体中の神経が、砂になって散っている。

 舞台で踊れなかった時みたいに。

 部屋の窓が、割れてしまった時みたいに。


「詠は、ずっと……綺麗な色だ」




(きみのキスは、人の魂を終わらせることができるの)

――嘘。お兄さんは、嘘ついてる。

(嘘じゃないよ。ぼくは本当のことを言ってるんだ)

――じゃあ、どうして、そんなことを言うの?

(それはね、……ぼくが存在することを、きみに終わらせてもらうためさ)

(だから、ぼくに、終わりをくれる?)




 カーテンの隙間の色は真っ黒だ。今夜は暗い。新月かもしれない。

 蛍光灯が青白い。ここは書き物をする人のための部屋だから。あたしは珠の眠るベッドに座る。マットレスが弾む。珠は仰向けに小さく首を傾げたまま、身じろぎ一つしない。ウェーブのかかった髪をよけて頬をなでる。肌が冷えている。瞳は薄く開いている。レモンイエローの瞳はこの部屋のどこも見ていない。嘘みたいだ。間違った夢みたいだ。

「ほんとに死んじゃったあ」

 突然、気に障る声がした。

「なるほど、こういう死に方だったんだねえ。見に来れて良かった」

 声のする方を見る。珠の机の天板に、ひとりの少年が腰掛けていた。

 少年は、薄く笑って珠の方を見ていた。真っ白なワンピースと、それに頬紅を振ったような色の肌。細さで少しうねった金色の髪。そして、鬱陶しいほどに見慣れている、目尻を細めたような形の、緑の瞳――あたしと同じ色の、同じ姿の存在が、目の前にあった。

「さてと。この子を確認したついでに、あの子を観察しなくちゃね」

 少年はあたしを見た。そして、目線の合うことに気づいて、薄ら笑いの顔をひきつらせた。

「きみ、ぼくのこと見えて……」

「あなたが珠を死なせたの?」

 言って、息が苦しくなる。

 きっとあたしは嫌な夢を見ている。まだ夜は明けていないのだから。この少年だって、お化けの真似事みたいに、突然この部屋に現れたのだから。

「ぼくが死なせたんじゃないよう」

 いやに呑気な声で応える少年は、顔に薄ら笑いを取り戻していた。

「あなたはどうしてここにいるの? ……あなたは一体、何なの?」

 少年が机の上から舞い降りた。

 舞い降りる、という言葉そのものの動きだった。裸足の脚は爪の先まで軽く、体がゆるやかに立ち上がると、長い髪がゆっくりとその後をつけた。重力のあるこの世から縁を切った生き物のような、見るものを惑わせる動き。

 そんな現実離れした動きを、この少年は、舞踏のすべによる見せかけでなくやっているのが分かった。ワンピースから伸びた四肢のどこにも、気を張ったときの筋肉のこわばりや、関節の弾みが見えない。

 そこまで考えて、あたしは、自分の頭が現実と変わらないほどめていることに気がついた。

「ぼくがここへ来たのは、この子の死に方を確かめるため」

 少年の肌から、細かい雷が放たれている。

「それから、ぼくは……死後の世界の王様、『冥王』ってやつかもね」

 雷の線の先は、木の生き方を真似するように、無数の行方へと枝分かれしていた。

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