(2)

 あたしの部屋の窓は、一日じゅう曇るようになった。

 割れた窓の替えは、白っぽい磨りガラスになった。それはあたしの選んだものだった。ガラス屋の土間には、透明な窓、網の入った窓、ぷつぷつの粒模様で埋め尽くされた窓、それを背景にもみじや小花の彫られた窓が並べられていた。あたしはその中で一番透けていない、肌理きめの細かい磨りガラスの窓を選んだ。外が見えなくてもいいのとタマが尋ねて、それでいいよと答えた。

 それが一週間前のことだったけれど、窓の曇っていることにはまだ慣れていない。半透明の白色がこの季節に夜ごと増えていく結露のようで、いつもカーテンを湿らせることを心配してしまっている。


 珠が仕事から帰ってきたとき、あたしはベッドの上に柔らかいものたちを並べていた。流れ星のキャラクターが散らされたハンカチを敷いて、水玉にリボンが踊る模様の枕を置く。むら染めの糸で、渦巻きの形に刺繍が入ったクッションを横に並べる。よれたタオルでできたうさぎの耳と、傷だらけの足付きボタンを目鼻にしたぬいぐるみを、クッションにもたれかけさせる。学舎にいた頃の友人達がうちに尋ねてきたときに、まだそのうさぎを持ってたのと驚かれて、気恥ずかしくなったのを思い出す。たぶん、みんなはもう、こういったものたちを頼りにしなくなってきている。

「ただいま」

 玄関のドアがキイと鳴るのと同時に、珠の声がこちらへ投げかけられた。廊下を覗くと、珠がパステルカラーのビニールの手提げを持って、その場に立ったまま、にこにことはにかんでいる。

「珠、おかえり。……なんだろ、それ?」

 あたしは部屋のドアから顔だけを出して、はにかみの仕返しをする。珠の持ってきた手提げ袋には、見覚えがあった。

ヨミの好きなもの」

 珠はそう言って、台所へ入っていく。

 廊下にはコーヒーと煙草の匂いが紛れ込んでいた。あたしたちが作ることのない、好むことのない匂い。珠が出版社に長居したときの匂いだ。物書きたちは煙の遊びが好きなのだ、言葉を編み上げることは、何かを慎重に燃やすことと同じだから――珠の書いた小説の中で、そう言っている人がいた。

 廊下の壁際に、脱いだままの上着と書類鞄が置かれている。

 あたしは台所へ向かい、廊下の灯りを消す。


 食器棚の天板で薄黄色のマシュマロが眠っている。乳白色のギンガムチェックのラップで一つずつくるまれて、モスグリーンの紙箱の中、四個分の仕切の二つを空けて。

 初めて珠がこのお菓子を買ってきたときに、あたしはその可愛らしさにはしゃいで、綿毛になる前のたんぽぽみたい、と言った。珠はその言い回しをずっと気に入っていて、このお菓子についている仏連寧プレネイ語風の名前は忘れてしまって、綿毛になる前のたんぽぽ、と呼んでいた。

 珠は仕事が行き詰まっていそうなときに、わざわざデパートのお土産売場に立ち寄って、このマシュマロを買ってきてくれる。そうするとあたしは夕食の後にお湯を沸かして、マーマレードとミントのお茶を淹れる。あたしたちはそのお茶を飲みながら、マシュマロを一つずつ食べて、気持ちを柔らかくする。さっきもいつもと同じように、そうやって過ごした。

 あたしは台所の掃除を終えて、水道とガスコンロが静かなことを確認して、家の中の戸締まりを見て回った。今夜は静かで、空気が冷えていて、暗かった。新月かもしれなかった。


 ベッドの上に並べた柔らかいものたちに、おやすみなさいを言って、部屋の灯りを消す。廊下の空気は、風呂場から入ってきた湯気で上書きされていた。珠の使ったシャンプーの香りがしている。

 あたしは珠の部屋の前に立って、いつもより静かにドアをノックする。はい、と返事が返ってきて、あたしはドアを開けた。珠は寝間着姿でデスクについて、本に付箋を貼っているところだった。

「ごめん、まだお仕事だった?」

「ううん……資料を見てただけ。今日の分はもう終わったよ」

 珠はそう言って、ペンや付箋紙を手早く片づける。デスクに置かれた分厚い本を見ると、布の表紙に古っぽい字体で、「白嵐びゃくらん発生の機序とその変遷」と書かれていた。

「難しそうなの読んでるね」

「うん、難しい」

 珠が苦笑いで首を傾げる。本を開いてめくってみると、ページをびっしりと埋め尽くす活字の中に、ときどき写真や図が混ざっていた。

 ぼろを着た子供達の写真は、大災禍の少し後に撮られたものなのだろう。あたしたちが生まれる時のシステムが、この頃はまだ出来ていなかったようだ。筆と墨で描かれた、大災禍よりずっと昔の時代の絵もある。刀で首を切られた着物姿の人から、入道雲と海の波を混ぜたようなものが吹き出して、辺りの人々が驚いている。昔の人が描く嵐は、まるで台風や津波と同じ、自然現象のひとつのようだ。

 図版だけを見ながらページをめくっていると、人の喉の解剖図があって、生々しさに思わず目が止まった。喉骨の奥の精巣が、舌の付け根の方へと管を延ばしている。あたしは少し不気味さを覚えて、本を閉じた。

「……うーん、あたしにはあんまり分かんなかった」

「おれもよく分からない」

 珠は椅子から立ち上がり、ベッドに深く腰掛けた。珠がこの頃仕事に疲れている様子なのは、こういった深刻そうな本を読み込んでいるからなのだろうか。

「珠にも分かんないことがあるんだね」

「ある、あるよ……」

 声の後半を溜息混じりにして、珠はそっぽを向き、寝ころぶ。焦茶色のウェーブヘアが伏せた頬にかかっている。あたしはその横に座った。

「ねえ珠、眠くなる?」

 あたしたちの周りは静かだった。部屋の外にも、中にも音は無かった。体の中だけで、自分の息が聞こえていた。

「眠くなりたい」

 珠があたしの暗号を解く。いつもより静かな声に、息の音が混じっている。無音の時間が終わる。

 あたしは珠の横に寝ころぶ。頬にかかった髪をよけると、閉じた瞼が微かに動いた。

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