第16話 アストリットの父母

「アストリット」


 「父親」だった。赤ら顔で、亜麻色の髪は禿げあがり、群青のひとみは濁っていた。すべてが疲れ切り、ひどく痩せこけて老けて見え、服装さえ埃まみれでよれよれだった。兄のオストヴァルト侯爵についてきたものらしい。


「……久しぶりだ」

「はい」

「……こんな良いところに嫁いでいるなら、金の少しくらい融通してほしいものだな」

「……申し訳ございません」

「俺の子じゃない娘を全員養育してやったのに、だーれも俺のことなんか顧みない」

「……申し訳ございません」

「アストリットは優しいから、少しくらいは融通してくれるよな? 酒が飲みたいんだ。あと、博打に負けちまって……」

「夫が許しません」

「貴様の夫なんて、俺の嫁さんが口説けばすぐ財布になるよ。お前の実父もそうだった。フリーデリンデぇ、フリーデリンデぇ、なんていってな。まだ若い坊ちゃんだったから、嫁さんがおっぱい触らせただけで、ぽんと領地とかくれたんだからな。お前の養育費、そこからだしたの。兄上が邪魔さえしなきゃ、左団扇だったってのに」


 紡がれるおぞましい事実に、なお、アストリットは叫ぶ。


「でも修道院へやったじゃないですか!」

「兄上がうるさいからな。本当はお前の存在をカタに、もっと国王にせびるつもりだったんだが——」


 ぱたん、と扉が開き、侍女の咎める声がした。


「こくおうはよだぞ?」


 四歳の国王がとてとてという足音を出してこちらにやってきた。そして、アストリットの「父親」を見る。小さな鼻をすんすんと動かす。


「きさま、……さけくさいな」

「国王陛下! ご無礼を」


 道化のように赤ら顔の「父親」は大仰に跪いた。


「アストリット、マティルデがかじゅうをよういしてまってる。なにをもたもたしておるのだ! しんかとしてしっかくぞ!」


 「さん」。義母は国王に言い聞かせ、「じいのははうえ」「大婆」と言われないために、自分をさん付けで呼ばせることにしたらしい。

 アストリットの手を小さな手が掴む。国王はアストリットを引っ張っていった。だが、「父親」は呪いを残した。


「アストリット、フリーデリンデがなあ、お前の夫に挨拶しにいったぞ。いますぐどうこうってことはねーだろうが、お前の母親は手口がえげつないからな? ははっ。お前にお前の夫の種を持つ弟妹が生まれるかもしれねーな」


 アストリットは震え、拳を握りしめた。国王はそんな彼女を不審な目つきで見た後、自分に用意された部屋に引っ張っていった。



 国王歓迎の晩餐会は翌日、華々しくり行われた。アストリットの家族もいて、一番下の妹が一番良い嫁ぎ先を見つけたことに地団駄を踏む姉もいた。


 アストリットは暗い気分になりながら、父とともにやってきている母を見た。普通の女性だ。胃が弱そうで、細身の。鳶色とびいろの髪をした、青い瞳の。

 義母のマティルデのほうがはるかに美貌で、非常に若々しい。どうして母に男たちはなびくのだろう。

 その穏やかで垂れた母の目は、国王を抱きあげて晩餐会を主催するジルヴェスターを見ていた。

 ねっとりと、じっくりと、彼のどこが心理的にも肉体的にも弱いのか検討するように。


 アストリットは晩餐の差配をしていて、夫のそばにいることがどうしてもできない。

 息が苦しい。嫉妬なのだろうか、それとも過去の傷を想起してしまう恐怖のせいなのだろうか。


 母が甲斐甲斐しく働くアストリットのそばに寄ってきた。ジルヴェスターが見ているところで。


「アスト。手伝おうか?」

「……えっと」

「忙しそうだもの。それにあなた、ジルヴェスター様からお聞きしたけれど、一ヶ月ほど臥せっていたとか」

「……はい」


 母の唇が妙に艶やかさを帯びている。青の瞳もじっとりと濡れていた。


「そんなに無理しちゃダメよ。アストリット」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないわ。母親としてわかるの。少し無理しすぎてるわ。酷いわよね。昨日だかに目が覚めたっていうのに、こんなにこき使われて」

「……大丈夫です!」


 アストリットは悲鳴をあげた。ジルヴェスターが振り向き、こちらへ寄ってくる。


「アストリット」


 母は——フリーデリンデは、一番下の娘の夫の目の前にじっくりと立った。穏やかに微笑む。やはりその唇は艶やかで、青の瞳も潤んでいた。


「娘を愛してくださって、ありがとうございます」


 ジルヴェスターは頬を染めて顔を背けた。


「……いえ」

「でも、もう少し娘に優しくしていただきたいものですわ」


 母のしなやかな手が、頬を染めたままの夫の腕を優しく撫でた。どうしてわかったのだろう。夫の腕には傷がある。傷があるところを撫でられ、夫は少し驚いたようだった。

 アストリットが俯いていると、夫は「申し訳ございません」、と母に謝る。


「アストリット」


 夫がアストリットに囁いた。


「無理しなくて良い。ごめんね。調子悪かった?」


 アストリットは神経質に首を横に振った。ジルヴェスターは妻の背中を撫でる。


「昨日起きたばかりなのに、今日こんなことをさせてしまって……、適当に理由をつけておくから、部屋で休んでいて良いよ」


 大きく首を横に振っていると、「遠慮することないよ」と夫が笑った。最終的には夫に命じられた侍女たちに、部屋に連れて行かれた。

 視界の隅で、母が婉然と微笑んでいるのを見た。

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