第12話 聖域は持っておきたい
ブリューム辺境伯領、特にブリューム城下で催される市は、怖い辺境伯さえ視察にこなければ王国北部一の盛況を誇る。川のほとりにあるため、物資や人の往来が盛んだった。さらに城下で開かれる市を、辺境伯は保護していた。辺境伯本人から保護されているかはともかく。
ジルヴェスターが苗のありかを尋ねた女は、家臣一同が凍りつくなか、拷問されたでもないのにぺらぺらと喋り出した。
南側の壁の前に店を出しているところは、品揃えは良く珍しいものもあるがいかんせんみな枯れかけている、とか。
北側の門の近くにある靴を出している店の二軒隣にある店は、とても品質が良いが、店主が曲者で若い男と見ると決闘を仕掛けてくる、とか。
無難なのは広場の真ん中の木陰に出している店だが、品揃えも品質も平凡、とか。
「申し訳ございません、このくらいしかお役に立てず、申し訳ございません……! お許しを!!」
「いや、良い。参考になった。この女と子供に褒美をやれ」
ジルヴェスターは手を叩いた。家臣が震えながらその通りにする。何度も家臣は褒美の中身を確認した。口封じの毒や刃物ではないので驚いているらしい。褒美を遣わすと、母子は逃げるように市から去って行った。
「やはり恐怖で民を統治しておくものだなぁ。すぐ教えてくれる」
ジルヴェスターは得意げにため息をついてアストリットに囁いた。彼女は困ったように肩を竦めた。
「あの、もう少し穏やかに聞いていただけますか……?」
「とても穏やか、気さくに聞いたけど?」
「……確かに聞き方はそうでしたけども」
二人はすでに馬から降り、従者を連れて市をぐるりと回っていた。
おそらく今日の市の売れ行きや暴漢が何名出たかなどは今日の夜か明日の朝には耳に入っているジルヴェスターにとって、興味のあることは、市の様子そのものだろう。自分が様子を悪くしているような気がしなくもないが。
南側の壁の前に店を出しているところは、すべての薬草を差し出してきた。
北側の門の近くにある靴を出している店の二軒隣にある店は、相手がジルヴェスターと見るや否やどこかに消えてしまった。
広場の真ん中の木陰に出している店は完全に震え上がっており、アストリットは仕方なく、夫を遠ざけて店主とふたりで話をした。ふたりとはいってももちろん侍女や護衛はくっついてくる。
「辺境伯妃さまが薬草好きだなんて」
店主は笑った。アストリットも微笑み返す。
「そうなんです。以前からの仕事で、こちらでも細々続けていこうかなあ、と」
「へえ。だいたい女性は結婚したらすべてが変わると聞きましたのに、変わらずに続けておられる」
「確かに、結婚で変わったことはいっぱいあります。でも……」
アストリットはカモミールの苗を手に取った。
「変わり過ぎて自分を失ってしまわないために、
アストリットは店主に銅貨を渡した。釣り銭を返される。
「聖域に辺境伯様は入れないのに、足だけ使っておいでですね?」
「わたしは夫の聖域である政治や戦の世界に立ち入ったことがありません。その政治や戦の世界の中で、どれだけ苦労しているのか、どれだけ悲しい思いをしているのか、どれだけ身を切るような思いをしてきたか、教えてくれない。そのせいで振り回されるから、わたしも振り回すの」
伯父の意向で還俗させられて、こんなところに政略結婚のために来させられて、吸血鬼だの悪魔だのと呼ばれている人間と夫婦になった元修道女は頬をほころばせた。
苗を渡しながら、店主がぽっつり呟いた。
「……辺境伯様は、自分達からすると、吸血鬼か悪魔の化身にしか見えませんが、どのお殿様よりも自分達を守ってくださいます」
なかなか複雑な評価だな、とアストリットは一礼して去って行った。
夫が相変わらず冷徹な表情で民に手を振っていたが、皆怖がって隠れてしまっているのを見た。
だが、あまりの恐怖に耐えきれなくなると、何をするかわからなくなるのが人というものだ。
遠くから、一人の男がふらふらと剣を片手に立ち上がっているのが見えた。アストリットは夫の袖を引いた。
「あの、変な男が」
夫は振り向いてその男を凝視した。男はかなり遠くからでもはっきり聞こえる声で、恐怖の辺境伯に向かって叫んだ。
「おのれ! この修道女好きのクソッタレ吸血鬼が! 暴君の世を終わらせるぞ!!」
「おや? あいつ全裸だなぁ」
修道女好きのクソッタレ吸血鬼ことジルヴェスターはぽっつりと言った。アストリットは頬を真っ赤にし、夫を動揺の眼差しで見た。
「……ぜ、全裸って! そんな! あなた! 大丈夫ですか!?」
アストリットが夫を揺らしていると、家臣が急いでやってきた。
「すぐにお逃げください! 全裸の男が殿を狙って猛速度でこちらにやってきます!!」
全てを捨てているのだろう全裸の中年男が、剣を片手にこちらに突進しているのが、アストリットにもはっきり見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます