第2章 義母、花畑を背負って襲来。

第5話 夫は極度の照れ屋だったのである

 そろそろ城下の大聖堂の、夕暮れを告げる鐘が鳴る頃だろうか。

 地平線へと沈みゆく黄金色の太陽で、目がしぱしぱする。


 つい三週間ほど前にこのブリューム城に嫁いできた元修道女のアストリットは、城の中庭の土壌を改良している。


 つい先日は、下男と一緒に中庭一面にびっしりと生えていた雑草を取り除いた。中央に生えたマルメロの木の根っこを傷つけないようにするのが大変だった。

 石ころやゴミが溜まっていたので、それも捨ててしまう。


 その数日後、城の厩から馬糞や鳥の糞などの家畜の糞をもらってきて発酵させ、土に混ぜた。大切な堆肥だ。ちなみにその日は、下男はまだしも下女はアストリットに一切近づかなかった。臭かったらしい。


 その二日ほど後、石灰を土に混ぜた。牡蠣の殻を粉にしたものを厨房からもらってきた。こうして土のを穏やかにする。


 そして、今日、土起こしで土を耕した。こうして呼吸できなくなった土に空気を混ぜてやり、呼吸できるようにする。


 土壌を良くするのは病人やけが人の治療とちょっと似ている。慎重に丁寧に、着実に、でも手早くしなければならない時は手早く行わなければならない。

 季節になったら、城に来る行商人から手に入れようと思っている苗は決めている。この中庭を、冷酷な夫と胡散臭い伯父に弄ばれているアストリットの箱庭にするのだ。

 

 汚れてもいい綿の服をまとい、土起こしを片手に手の甲で汗を拭っていると、足音が聞こえた。


 振り向けば、絹の黒衣に黒髪の冷たげな男が、アストリットを氷を翡翠色に染めたかのような瞳で見ている。——アストリットの夫、ブリューム辺境伯ジルヴェスター。


 家臣たちに取り囲まれてどこかへ移動する最中のようだった。仕事中毒だから、夕方だというのにまだ仕事は終わらないのだろう。

 夫は家臣のひとりに何か囁いている。その家臣がアストリットに聞いてきた。


「何をしているのか、——と殿からの御下問でございます」


 アストリットは微妙な気分になった。


「土を耕しています」

「殿、奥方様は土を耕しているそうでございます」


 さらに夫は家臣に耳打ちする。


「奥方様、殿は、冷えるから中に入れ、——と慈悲深くも仰せでございます」


 なんだっけ。アストリットはこの光景を見たことがある。修道院に行く前。子供の頃。父母との食卓で。


 ——アストリット。お父様に、その棚の上にある蜂蜜を取ってください、と言って。

 ——はい、お母様。お父様、その棚の上にある蜂蜜を取ってください、とお母様が。

 ——アストリット、自分で取れ、とお母様に伝えなさい。

 ——お母様、お父様が、自分で取れ、っておっしゃってます。


 夫婦喧嘩をしているときの父母そのままであった。今の自分たちは。


 素直に中に入り、自分の寝室へと赴く。侍女たちが泥まみれの自分を、井戸水で清めて香水を振りかけてくれた。修道院にいた頃は、自分の身体は濡れた布で拭っておしまいだったが、辺境伯妃ともなるとそうもいかないらしい。


 青い絹地のドレスに身を包み、ひとりぽっちなはずの晩餐なのに、おいしくもりもり食べた。晩餐の帰りに夫の執務室をちょこっとのぞいたが、猛烈に仕事をしている。


 実はアストリットは、夫が冷たい人柄なだけで、自分だけに冷たいわけではないと気づいてから、かなり元気になっていた。

 それに——。



 夜が更けて、すっかり月が空高くのぼり、城を照らすようになった時間。皆が眠りについている。


 こつり、と石が転がる音がして、アストリットは寝台から身体を起こす。目をこすって部屋を出ると、予想した通り夫が外で待っていた。

 月に照らされた艶やかな黒髪が美しかった。しっかりした手がアストリットの華奢きゃしゃな手を握り、彼女を引いていく。いくつかある客間のうち、一番使用されていない小さな部屋の扉の前で止まった。

 その部屋に連れ込まれる。そして夫はアストリットを後ろから抱きしめた。


「あんまり夕方の寒くなる時間まで外にいたら、風邪をひいてしまうよ」

「……」


 夫は極度の照れ屋だったのである。ふたりっきりのときしか親しげに口を聞いてくれない。酔っ払ったときに甘い言葉を吐いてくる。

 しかも、お互いの寝室で夜を共に過ごすのは嫌がって、いつもどこか変なところにアストリットを招いて逢瀬の時を持つ。お互いの寝室を行き来しているのが周りにバレたら恥ずかしいかららしい。


「アスト、聞いてる? あの中庭をどうにかするのは僕も賛成だけれど、頑張りすぎて僕は心配だよ」

「あなたのほうが頑張ってません? わたしはあなたが心配です」


 夫はアストリットの言葉に涙を噴出させた。


「……天使がここにいるぅぅぅ……」 


 寝台に柔らかく押し倒された。夫はアストリットを見下ろすと、ふ、と幸せそうなため息を漏らした。

 しっかりした太い指が、アストリットの白い頬を撫でる。その指が、彼女のまっすぐした亜麻色の髪を優しくかきわけていく。


「……ふぅ」


 くすぐったさのあまりため息を漏らすと、夫は耳にくちづけを落とした。


「……ひゃ」


 もっとくすぐったい、とぴくりと肩を震わす。調子に乗った夫は首筋や鎖骨にもくちづけを落とした。


「……やぁ……っ」


 川のように寝台に広がる亜麻色の髪が急流になったかのようにうねる。先ほどまで真っ白だったアストリットの頬は、まるで林檎のように真っ赤になってしまっている。

 夫は翡翠色の瞳を喜悦の色に染めていた。そして紅玉を宿しているかのように赤い妻の耳に囁く。


「城の中庭をどうするつもりなの?」

「薬草園にしてしまおうかなって」

「それはいいね。母上が面倒を見ないで荒れていたからね。……アスト、僕の天使、僕に抱きついて、唇にキスしながら言って」


 またちょっと酔っているようだ。どこか酒臭い。

 恥ずかしさのあまり消え入りそうになりながら、夫に抱きついた。


「……や、薬草園に、してしまおうかなって」


 頭を撫でられる。だが、耳にまた囁かれた。


「だめ、キスしてないよ」


 まだ夫に自らくちづけたことはない。ためらいがちに、夫の薄くも厚くもない形の良い唇に自分の唇を寄せた。夫が本当に愉悦の表情を浮かべている。


「アストリット……、可愛い」


 お返しに激しくくちづけをされ——。


 ばーん。


 「「うぬごあぁぁっ!」」


 お互いを突き飛ばすようにして、瞬時にふたりで寝台から離れた。アストリットは寝台の隅で元修道女らしく祈るふりをし、ジルヴェスターは非常に冷たげな表情を浮かべて寝台の近くの椅子に座り、部屋に置いてあった本を読むふりをしだす。


 ふわりと一面に薔薇の香りが漂った。豊かな金の髪の絶世の美女が扉を開け放っていた。

 

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