喫茶店にて④
「じゃあ滑舌について最後の項目ね」
「はーい!」
もう結構な時間が過ぎた。
コーヒー2杯でよくもまあここまで粘ったものだ。
次に来た時は売り上げに貢献しよう……。
「ノートの束とは別にプリントが入ったクリアファイルあるでしょ?」
「ああ、これね」
風祭さんはクリアファイルを手にとって、その中のプリントの束を取り出した。
「げろううり?」
「外郎売(ういろううり)ね」
「あ、これういろうって言うんだ」
「……役者になりたいと思っているのなら、これくらいは知っといたほうがいいぞ」
「あ、はい……すみません……」
俺の指摘が少し厳しい声色になってしまったせいか、萎縮するように身体を縮めてしまう風祭さん。
別に責めるつもりじゃなかったんだけれど、やらかしてしまった……。
「いやまあ、普通は知らないよな。すまん」
「いやいや、私も本当にリサーチ不足だったから……」
「……んん、あー、話を戻すけどさ」
「あ、うん」
「この外郎売をソラで言えるくらいに練習しといて。少なくとも一週間以内には」
「え!? これを一週間で!?」
そこそこの文章量があるものを一週間で覚えなくてはならないのは、普通は無茶だと思えることだろう。
でも、現場によってはもっと多い文章量をもっと短い時間で覚えなくてはならない場面も出てくることもある。
今のうちから文章を覚える練習をしておいて損はない。
「これはウォーミングアップにも使えるし、滑舌の練習にも演技の練習にも使えるしで結構万能だからなこれ」
「確かになんかめっちゃ難しそう……。これ言えるかな……。中盤以降なんて早口言葉のオンパレードなんだけど」
「そう。だからいい練習になるんだよ。俺も今でも定期的にやってるし、芝居をする前はウォーミングアップでやってるからね」
慣れたら数分で言えるようになるから、喋る仕事の前には楽屋だったり家を出る前だったり、空いた時間に言うようにしている。
他にもウォーミングアップ方法は色々あるけれど、それは後々教えることにしよう。
「とりあえず、これから1ヶ月はそれを使って練習しよう」
「え? これウォーミングアップ用じゃないの?」
「ウォーミングアップとして使うのは慣れてからね。まずはそれを使って基礎的な発声と滑舌、あとは鼻濁音の練習や喜怒哀楽の表現にシチュエーション、色んな練習に使えるから、まずはそういう基本的なところを練習していこうか」
「なるほど……。うん、わかった。頑張ってみる」
「おう。とりあえず最初はゆっくり1音1音きちんと言えるようにな」
「はーい!」
まあ、これを滑らかに言えるようになるのは1ヶ月は最低でも1ヶ月は掛かるだろうし、それまでに次は何をやるか考えておこう。
正直俺も人に教えるって行為はやったことないから、探り探りやっていくしかないからなぁ。
「そういえば、風祭さんは音楽とかって聴く?」
「音楽? まあ人並みに……かな。友達とカラオケ行ったりもするから、最近の流行りの曲とか、昔見てたドラマとかアニメの曲を聴いたりはするよ」
「なるほど。じゃあ、洋楽とかは聴いたりしないんだ」
「うーん、そうだね。あんまり聴かないかなぁ」
「オッケー。じゃあこれからは洋楽のR&Bも聴くようにしよう。あとは邦楽のダンスミュージック」
「えっと、それはいいんだけどその理由は?」
「リズム感を鍛えるため」
芝居にもリズム感は必要だ。
もちろん歌やダンスをするほどの完璧なリズム感までは求めないけれど、セリフや相手との掛け合いで必要になってくる。
特に掛け合いなんて変なリズムでされたら、聞いてる方にも違和感が出てくるし、掛け合いの相手もやりづらい。
役者としての幅を広げるのなら声優の仕事もやる機会が出てくるかもしれないし、アフレコはさらに絵や海外の役者のパクに合わせる必要が出てくる。
それにはリズム感が必要不可欠だ。
「セリフや掛け合いにもリズム感って凄く重要なんだよ」
「あー、それは何となく理解できるかも」
「まあ詳しいことは追々教えるけど、今はリズム感を鍛えるためにって覚えておいて」
「うん、わかった。でもなんで洋楽なの? ダンスミュージックはわかるけど」
「洋楽って邦楽よりもリズムが細かいんだよな。もちろんどっちも素晴らしいものだし、邦楽でもめっちゃリズムが細かい曲もあるけど、手っ取り早く裏拍やグルーヴを感じるのは洋楽を聴くのが一番だと思ってる」
もちろんこれは俺の持論なんだけれど、完全に間違いってことはないだろう。
「とりあえずオススメのアーティストや曲を何個かリストアップしとくから、そこから自分がいいなって思うものを聴いてみて」
「りょーかいです先生!」
「うむ」
まあ本当はメトロノームを用意して、そこで狂うことなく手拍子や1.2.3.4って声に出せるようになったり、声で表、手拍子で裏のリズムを同時に取れるようにする練習をしたほうがいいけれど、最初からそれは難しいし結構地道でキツいだろうから、まずはストレスフリーでリズム感を磨いてもらうのがいいだろう。
こういうのは養成所とかスクールとかできちんと教えてもらうのが一番だろうけど、それには少なくないお金が掛かってくるからな。
一人暮らしのバイトしている高校生にはハードルが高いだろうし。
「あ、あと音楽繋がりだけど、普段聴く曲とか好きな曲でもボーカルだけじゃなくてバックの楽器の音も集中して聴くようにね」
「ボーカルだけじゃなくて?」
「これは耳を鍛えるためね。音感ってめっちゃくちゃ大事だから」
「一応カラオケでの採点とかそこそこ良い方だけど……」
「もちろんそれは凄いことだし、歌手を目指してるわけじゃないから、全部の音を把握できる……みたいな完成度は求めてないけど、それでも何となくでいいから、ギターはこういうメロディなんだなとかベースやドラムはここでこういうリズム刻んでるんだなとか、ここはこういうハモリなんだなとか耳で感じられるようにしておいたほうがいい。耳がいいってそれだけでとてつもない武器だから」
「耳がいいってことが武器になるの?」
「それはもう。セリフも音だっていうのはわかるよね?」
「うん、それはなんとなく」
「自分の感覚で正解の芝居ができる天才ならその感覚を信じればいいけれど、そうじゃないならまずは理論で芝居を作っていくのがいいんだ」
「理論で芝居……。でも芝居って感情でやるのがいいんじゃないの?」
「もちろん感情で芝居をするのは大切なことだよ。でも、それはもっと高いレベルの話なんだ。自分がこういう感情を作って、そういう芝居をしても、そのセリフの音が違っていたら全然伝わらないし、わかっていなかったら同じ芝居はできない」
「あ……」
全部が一発オーケーなんて、相当のベテラン同士の芝居じゃないとできない芸当だ。
例え自分がいい芝居じゃなくても、相手がミスをしてしまったらリテイクが発生する。
その時に自分が出した音がわかっていなかったら、次は自分のせいでリテイクになることもあるし、相手もやりづらい。
だから耳を鍛えるってことは大事なことなんだ。
「こういうセリフなら出だしはこういう音でこういう音の運び方。こういう音ならこんな感情に聞こえる。相手がこういう音でセリフを話終えたなら、じゃあ自分はこういう音で返す。でもそれは耳がある程度よくなければできることじゃない」
「確かにそう言われたらそうだよね……」
「でしょ? もちろん家で台本をチェックする時もどういうシーンなのか、どういう感情なのか、どういう動きをしているのかをまずは何パターンか考えて、そこからじゃあこういう言い方にしよう。こういう音ならこう聞こえるかな? この音は違うからこういう音の出だしにしようみたいな考え方をすることが大事だね」
子役時代は自分の感情のまま素直にやっても、周りの方がフォローしてくれたからなんとかなった部分はあるけれど、成長して素直に感情を出すことが難しくなったり、自分が逆にフォローする側になって、感性だけじゃなく理論的に考えなくちゃいけないことが増えた。
最初は難しくてよく監督に怒られたり、共演者の方々に御迷惑をかけて自信とか色々ボッコボコになって凹みまくったっけ。
その結果、もっと成長することができたからいい経験になったんだけども。
「わかった。今日から意識してみる」
「うん、最初は凄く難しいけど頑張ってみて」
とりあえず今日はここまでかな。
初っ端から結構詰め込みすぎた感はあるけれども、これから先のことを考えたら、今からやれることはやっておいたほうがいいからな。
卒業するまでに基礎を固められたらいいし。
最初は面倒なことになったと辟易していたけれど、風祭さんは素直に俺のアドバイスを聞いてくれて、疑問に思ったことはきちんと聞いてくれる様子にほんの少しだけこれからが楽しみになってきたのだった。
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