1-14【服従の仮面】
犬塚達が宮部を連れて店を出たちょうどその頃、時を同じくして、真っ赤な血の一雫が、磨き上げられたフローリングに当たって砕けた。
月明かりが差し込むリビング。革のベルトで椅子に縛り付けられたアキラは、母に向かって微笑んでいる。
それとは対象的に母は怒りの形相を浮かべてアキラを睨みつけていた。
下着姿のアキラの身体には赤紫のミミズ腫れが幾重にも重なり、裂けた皮膚からは血が滲んでいる。
それでもアキラは表情一つ変えずニコニコと笑っていた。
「アキラ……あなたどうしてお母さんの言いつけを破って繁華街に行ったの……?」
静かに問いかける母に向かってアキラは答えた。
「お父さんがきちんとあの店を燃やしたか確認しに行きました。お母さんが確認せずにすむように」
嘘だ……
何かが女の頭の中で囁いた。
いや、それは女のすぐ耳元だったかも知れない。
ぴたりと貼り付くようにして、白い仮面が、女に耳打ちする様を見る者は、この部屋の何処にもいなかった。
「嘘よ……」
……お前の大事な家庭を壊すつもりだ……
「私の大切な家族を壊すつもりなんでしょ……!?」
こんなにも頑張っているお前を裏切って……
「あなたの幸せのために……どれだけ私が犠牲を払ったと思ってるのよ……!?」
「お父さんとしたくもない結婚をして……あなたを産んで……出産の時だって分娩異常でお腹を切って……見なさいよ!! この傷跡……!!」
そう言って母はシャツをまくり腹部を露わにした。
薄っすらと残った手術の傷跡を指でなぞる母の目には大粒の涙が溜まっている。
わなわなと震えながら睨みつけた息子は、相変わらずにっこりと微笑みながら理想的な表情で母を見つめていた。
思い描く理想の笑顔。
「あなたにはね……幸せになってもらわなきゃ釣り合わないのよ……私が幸せにする……私以外の人間があなたを幸せになんて出来っこない……いいえ……させない……!!」
……まだ反抗の色が残ってるぞ……
何かが頭の中でまた何かが囁いた。
白い仮面から突き出した、唾液で粘つく気持ちの悪い舌先が、女の耳にずるりと
穢れたものでも見るように、息子の顔に目をやると、笑顔の奥に僅かな怯えが見えたような気がした。
「そう……まだ私を苦しめるつもりなのね……」
そう言って母は壁に掛けられた無数の仮面の中から一際不気味なものに手を伸ばす。
古い木で作られたその仮面には、干からびてなお生々しさを残す、人間の皮膚がこびり付いていた。
仮面の頭部には、付け根に肉片の残った人毛が植え付けられている。
それを両手で抱えて振り向く母は、ぞっとするような笑みを浮かべてアキラの方を見た。
仮面の内側には脳までゆうに届きそうな、長い棘がいくつも生えている。
それを見ると同時にアキラの顔に貼り付いた笑顔の仮面が引き攣った。
目元をぴくぴくと痙攣させると、消え入りそうなかすれた声が固まった唇から零れ落ちる。
「いやだ……」
「お父さんもこれで、とっても素直で優しい、素敵なパパに生まれ変わったわよね?」
「い、いやだ……」
「すこーし痛いわ。でもすぐに幸せな気持ちが脳内をいーっぱいに満たしてくれるのよ?」
「やめて……お母さん……やめて……」
「見て? お父さんのあの顔……幸せそうでしょ?」
母はアキラと鼻が付くほど顔を寄せてアキラの目を覗き込むと、キッチンで恍惚の表情を浮かべながら食器を洗う父の方へと視線を移した。
アキラが目だけ動かしてちらりと父の方を見ると、目が合った父が不自然な微笑みを向けてこちらに手を振っていた。その手には洗剤の白い泡がついている。
「ごめんなさい……もう友達もつくりません……彼女もつくりません……言う事聞きます……お母さんだけの優等生になります……勉強して一流企業に入って、お母さんの夢だった雑貨屋さんを建てます……だから……許して……ごめんなさい……ごめんなさい……」
泣きながら繰り返すアキラの頬を、母の冷たい手が愛撫した。
その冷たさに、思わずアキラの身体が跳ねる。
「怖がらないで? 怒ってるんじゃないのよ……? これは愛なの……お母さんの愛、受け取ってくれるわよね……?」
ゆっくり、ゆっくりと鋭い棘がアキラの額にめり込んでいく。
ぐりぐりぐりぐり、と母は仮面を押し付けながら、狂気の笑みを浮かべていた。
流れ出した赤い血が、幾筋も顔に線を描くが、仮面に隠れて母には見えない。
……ああ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙唖あ゙あ゙ぁあ……
アキラがとうとう発狂し、まさしく狂乱的な叫び声を上げたのと同時に、ゲラゲラとけたたましい嗤い声が玄関の方から響きわたった。
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