第4話 石母

 例年通り、好きなもの尽くしのごちそうを平らげると、身支度を整えて寝室の襖を開ける。


 薄赤い、大きなものが目に飛び込んでくる。


 そこには、濡れた薔薇の花びらを重ねたような、何ともいえない美しい布で出来たドレスを着た若い異国の女性が立っていた。まろやかな美しい肌は、赤い血の色の上に、少しずつミルク色を塗り重ねれば、このような色になるものだろうか。広めにあいた襟には薄いレースを何層にも重ねてあり、濃桃色のリボンが結ばれていた。腰から下が大きく膨らんで広がるスカートは、たしかクリノリンスタイルというのではなかっただろうか。


 今回の来客は布団に入っていなかった。

 この服装では入れないか。服装と美しさ以外は普通の女性に見えた。とうとう現実においての不法侵入者だろうか。


 彼女から不穏な気配はしないけれど、珍しいお客様が続いて、わたしの感覚が麻痺している可能性は大いにある。


「彼方より、母とともにお邪魔しております。このひと時のお礼に、小さなアリアなどご披露いたしましょうか」


 この女性のような声を、鈴を転がすような、というのだろうか。

 きっと美しい歌声だろう。お願いしたいが、この時間に大声で歌っていただくと、ご近所迷惑になるかもしれない。


 でも、聞いてみたかった。


 わたしの表情から何か察したのか、彼女は微笑んで会釈をすると、囁くような声で歌い始めた。どこの言葉かはわからないが、あたたかい掌で顔を包まれているような、とても心地いい声だった。


 彼女は濃茶の髪をふんわり結い上げており、後ろはゆるく垂らしてある。そこにも薄桃色の小花が散らしてある。

 歌に聞き入っていると、気づけばルネサンスの絵画に出て来るような、天使としか表現しようがない羽根のある金髪の赤ん坊たちが、何人か彼女の頭上を舞っている。

お互いの顔を見合わせると、くすくす笑い合いながら、彼女の髪を指で巻いていたずらをしている。彼女は一向に気にせず、両手をわたしに差し伸べながら優しい歌を歌い続けた。プロの姿だった。


 わたしは歌の邪魔にならないよう、そっと隅っこに正座をする。

 彼女が静かに歌い終え、わたしは感動を伝えたくて、音を立てないように掌の腹のほうを打って拍手をした。


「素敵な歌を、ありがとうございます」

 彼女はこちらを見たまま微笑みを浮かべ、片手をあげて指先だけで天使たちをたしなめる。天使たちはまた笑いころげると、おしりをこちらに見せて、くるりと一回転した。瑞々しいおしりにえくぼがある、と思った刹那に天使たちは消えてしまった。


「伺ってもいいですか? なぜ、ここにいらしたのですか?」

 例年同様、答えは期待してはいなかったが、それでも尋ねることを諦めてはいけない。

「玲瓏公のもとで、楽団とわたくしはたくさんの音楽を披露してきました。けれど、やがてなんども季節が変わり、おのおのが自分の国に帰る時がやってきました。別れを惜しみつつも、ようやく故郷に帰れる喜びを隠そうともせず、ひとり、またひとりと音楽家たちは去って行ったのです。最後に残ったのは、玲瓏公にすべてを捧げたわたしと母だけでした」

「それは、お疲れでしたでしょう。お茶でもおいれしましょうか。飲みかけで恐縮ですが、ワインも少々残ってございます」

 来訪に至る経緯がわからないことには慣れている。


 歌姫は傍にあるトランクを開けると、そっと両手に収まるくらいのサイズの石を取り出した。

「お母さん、疲れていない? ワインかお茶をいただく?」

 石、それとも枯れはてた木だろうか。しわしわの優しい笑顔を讃えた、老いた女性の顔だけがその石だか木みたいなものに刻まれていた。歌姫は、両手に乗せた石のような何かに向かって耳を傾けている。

「そう、いらないの。では、わたくしだけワインをいただくことにいたします」

 石の老女の声は聞こえなかったけれど、彼女はこちらを振り返り、そう言った。


 わたしは台所から、グラスに注いだ白ワインと、念の為にお母さまの分として冷たい麦茶のコップを載せたお盆を運んできて、そのまま歌姫に差し出した。

「ありがとう」グラスを受け取ると、彼女は真珠のような白い歯を見せてにっこりと笑った。


「素敵なドレスをお召しですね。満開の薔薇みたいに瑞々しく見えます」

 これまでと違って、普通の人みたいに見えるから、わたしも気軽に声をかけてしまった。彼女の笑顔がほんの少し翳ったように見えた。

「ありがとう、とても素敵でしょう」

 彼女はまた、もとの笑顔に戻った。

「このドレスで舞台に立った時、わたくしは公から永久の専属契約を仰せつかったのです」

 たしかにとても美しい。何層にも重なった、この透き通るような薔薇色の布地の素材はなんだろう。オーガンジーでも天鵞絨でもない。しっとりとして光沢があるのに、布地の目や縫製のようなものが見あたらない。

「このドレスのお話、ご興味がおありかしら」彼女は、優しくわたしを見つめた。

「はい。わたしはファッションには詳しくありませんが、夢のように綺麗です。ドレスも、何より貴女のお姿も声も」


 お世辞ではなかった。このまま、ずっとここにいてくれたらいいのに。


「ありがとう」

 彼女は微笑みをたたえたまま石母の横にふわりと腰かけると、話し始めた。

「玲瓏公は、とても明晰で合理的なお方でした。何ごとにおいても優れていらっしゃいましたが、なかでも芸術の追求、とりわけ音楽には熱心なお方でした。そもそも母とわたしは裕福ではありませんでしたが、公は領内にある音楽の才能を取りこぼさないよう、何度もひろく試験をしては才能のある子どもたちを集めました」

 語りはじめた彼女の淡い虹彩の瞳を見ていると、その彩りのなかに徐々に吸い込まれていくようだった。


 気づくとわたしは小さな木造りの小屋にいて、そこには若い母と小さな娘がいた。わたしの姿は彼女たちには見えないようだった。


「母さん、教会の張り紙になんて書かれてたか、知ってる? 楽団に採用されれば、食べ物も家も何もかも玲瓏公様が面倒を見てくださるんですって」

 娘は食事の仕度をしている母親の腰にまとわりつきながら、母親を見上げた。

「ああ、隣のおじさんが読んで教えてくれたからね。でも、おまえ、楽器なんかできたのかい?」

「ううん。わたしは歌が得意でしょ。歌で応募してみるつもり」

 ら~、と娘は両手を握って高い声を出した。

「いい声だ。村のはずれの小川にいるみたいな気持ちになるね。わたしのいい子、最近ずんと背が伸びたねえ」

 母親は娘を頼もしそうに見た。

 娘はたしかに、清らかなせせらぎみたいに透き通って光るような声の持ち主だったから、最初の試験も次の試験も合格していった。


「母さん。わたし今日、輝くような声をしているって公から直々にお声をかけられたの。周りの皆が驚いて、わたしを見たわ。わたし、きっと最後まで残れる気がする。だけどね、男の子も女の子も皆、ずいぶんおめかしをしていたの。大丈夫かしら」

 娘の顔が曇った。


「そうだったのかい。それじゃ、わたしのいい子にぴったりな、おめかしをしなきゃならないやね」


 次の日、朝食を済ませると、母親は平たい箱を持って出かけ、それより少し小ぶりな平たい箱を持ってお昼過ぎに小さな家に帰って来た。

「さあ、最終試験にはこれを着ておいき」

 娘が箱を開けると、中には娘の声によく似合う澄んだ水色の綺麗なドレスと、同じ布で出来た小さな靴、それにリボンが入っていた。

「母さん、これどうしたの」

 村一番のお金持ちの家の娘でも着ていないような豪奢なドレスに娘が驚いた後、母親に飛びついた。

「母さん、ありがとう」

「大丈夫、きっと受かるよ、わたしのいい子」

 母親は、優しい笑顔で娘を抱き返した。


 母親が、そのまた母親から譲られたという結婚式でのヴェールと小さな指輪が無くなったことに娘が気づいたのは、もうずいぶんと後のことだった。年に何度か虫干しする以外には大切に閉まってあったものだから、すぐにはわからなかったのだ。


 娘は合格した。

 それからも母親は精一杯の応援し、彼女は毎日歌い続けて楽団の一部である合唱団に所属した。娘は美しく成長し、歌の技術も上達した。やがて独唱を任されるようになった。


「おまえは、これからは歌手として、舞台では一人で歌いなさい」

 ある日、玲瓏公は彼女を城へ呼び出すと、これまでの努力を労い、たくさんの美しい布やレース、それに金貨を渡した。

 彼女は小さな家で待っていた母親にそっくり全部を渡したが、母親はひとつも受け取らなかった。

「いい子、いい子だ。がんばったのはおまえだよ。母さんには何にも必要ないんだよ。だって、おまえがいるんだからね」

 母親は娘を抱くと、嬉しそうに笑った。それからしばらく、二人は幸せに暮らした。

 

ある日、娘は玲瓏公と楽長だけがいる部屋に呼ばれた。


「おまえは素晴らしい。けれど、まだまだ可能性を秘めているはずだ。わたしはその美を引き出したいのだ。ここで満足してはいけない。これからは、おまえと外から招いた歌手を順番に舞台に立たせて、おまえの能力を最大限引き出せるように競わせる。わかってくれるね」 

 公は優しい声で彼女に言った。横にいた楽長は、負けたほうは、楽団を去ることになるだろう、と言いにくそうに付け加えた。

「はい、わかりました」娘は小さな家に帰ると、母親の膝に縋って泣いた。

「大丈夫、そんなに泣くもんじゃないよ、目が溶けちまう。心配いらないよ、わたしのいい子」

 母親はずっと娘の頭を撫でて、そっと肩をさすった。


 はじめにやってきたのは、情感豊かな身振りで歌うのが得意な若い娘だった。

 歌では娘が優勢だったが、やって来た新しい娘は舞台で音楽にあわせて舞うようにひらひらと手を動かした。外から来た娘のほうに拍手の分があるようだった。


「明日、もう一度競わなければならないの」

 判定を持ち越された娘はまた、母親の膝でむせび泣いた。



「わたくしは本来、そこまでの才能は持ち合わせていませんでした。でも母のおかげで、楽団の最後まで歌いつづけられたのです」

 わたしは正座したまま、腿をぎゅっとつかんだ。気づけば、わたしは相変わらず自分の部屋のなかにおり、目の前には歌姫とトランクの上に石母がいた。


 どういうしくみかは分からないが、今の彼女の言葉を聞くまでは、同じ場に居合わせたように母娘の様子を見て来た。あの小さかった女の子がこの美しい人になっていく様を見た。ということは、あの優しいお母さんが、この石なのだろうか。


「歌うわたくしの両腕が、舞台の先まで感情を伝えられるよう、母はその手をさし出してくれました」

 石母をそっとトランクに敷いたハンカチの上に乗せると、自身の両掌を見つめながら、彼女は続けた。

「音域が広く、声量が豊かな方との競演時には、わたくしはまるで叶いませんでしたの。舞台の喝采は全部が彼女のものでした。終演後、わたくしの楽屋に訪れる人は誰もいませんでした。次の日に、もう一度だけチャンスをあげると、公からのお情けをいただきました。途方に暮れて、さめざめと泣き続けるわたくしを見て、両手の無い母は、泣くんじゃないよ、母さんに任せておけばいい、そういつものように慰めてくれました」


 歌姫は、ひと粒だけ涙をこぼした。


「そうして、わたくしが泣き疲れて眠ると、母は家をそっと出て行き、帰って来たときには空っぽの身体になっていました。服の上からでもわかる、すかすかの身体で」


 彼女は両手を握りしめると、一気に話し続けた。

「母はお腹の中の全部を、わたくしにさし出してくれました。そうして声を響き渡らせたわたくしの舞台は大成功でした。玲瓏公がお顔を紅潮させているのを初めて目にしました。それまでにないほどお喜びになられると、もう、おまえ以外の歌姫は必要ないと仰ったのです。母は、だからいっただろう、おまえはいい子だ、安心しなさい、とすかすかしながら、わたくしに笑いかけました」


 でも、と彼女は続けた。

「それでもまた、しばらくすると玲瓏公の探求がはじまったのです」

「またですか」

 Tシャツに短パンの無力なわたしだけれど、玲瓏公への怒りが抑えられなかった。


「もう限界でした。いただいたご褒美は、すべて歌の上達と舞台衣装のために使い果たしていました。母に残っていたのは、顔と心臓だけでした。玲瓏公は、今度こそ、これが最後だよ、おまえの素晴らしい歌を聞かせておくれ、と膝をついたわたしの顔を両手で上に向かせて仰いました」


 彼女は、ぽろぽろ涙をこぼし、涙は傍にある石の母を濡らした。


「公は、すまないね、と涙を浮かべて、母とわたくしをたいそう憐れんでくださいました。それでもどうしても、その衝動を押さえることは出来ないご様子でした。公は優しさと残酷さをお持ちで、その矛盾から生まれる衝動が、公を芸術の追求へと向かわせているようでした。わたくしは、ただ頷くことしかできませんでした。」


 彼女は盆の上のワインを取って一口だけ飲むと、しばらくグラスを両手で持ったまま黙った。わたしも黙ったまま、次の言葉を待った。


「最後にいらした方は、それは美しく、そして裕福な家の出身でした。金糸銀糸がふんだんに使われたきらびやかな衣裳は、大国の王女のようでした。泣き続けるわたくしを置いて、母はまた街に出ていき、ある店に出向くと残っていた心臓を使い、このドレスを仕立ててくれました。店から届いたドレスの箱の隅に、今のこの母が一緒に入っていました。勝負はわたくしの勝ちでした。そうして最後の公演は終わり、楽団の仲間がそれぞれの故郷に帰っていくと、公は満足そうに息を引き取られました」


 わたしは、彼女とそのドレスを凝視した。


「それで、終わりです。これは、母の心臓を少しずつ切り取ったもので出来ています。だから、ね、とっても綺麗でしょう」

 彼女はスカートに手を添えて、うつむいた。目にしているドレスの美しさが、彼女の言う事は本当なのだと本能に訴えてきた。薔薇の色ではない、生の肉の色なのだ。


 何も言えないまま、彼女と石の母を見つめた。

 訪問とワインのお礼を述べる彼女に、返事もできなかった。


「そろそろ、お暇しましょうか、お母さん」

 くすんと鼻をすすると、彼女はまたハンカチの上の石母を両手に乗せた。


「おまえ、寒くないかい?」

 わたしに背を向けて立ちあがる歌姫へ、彼女を気遣う母の声が聞こえた気がした。

 締めきった部屋の中に、さっと風が吹いたような気がした。瞬いた後、わたしは布団に入り横たわっていた。


 何もかも夢だったのだと思い込んで眠ろうとしたが、無理だった。





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