第3話 ごまのお姫様
蟹で満たされた腹をさする。
明日、顔から八本足が生えても文句は言えないだろう。
さて、今年はどうだろうか。
神さまが来るのか、白鳥達が来るのか。
正直、もうずいぶん前から気になっていた。
そっと襖をあけると、やはり布団が小さく膨らんでいるような気がした。それに喜びを感じている自分に気づく。膝をつき「失礼」と、かけ布団を捲り上げる。
一匹のふっくらした大きな白い猫がいた。
猫は香箱を組んでいたが、ゆっくり目を開け悠々とこちらを見上げた。
かなり大きい以外は普通の猫だったことに少しがっかりする。戸締りは間違いないはずだが、どこから入り込んだのだろう。
「お招きもされていないのに、お邪魔してしまいました。すみません。少し休憩したら、わたしたちはすぐに出てゆきます」
威厳のある、穏やかな口調で猫は話し始めた。来訪者は続いているのだ。
しかし、わたしたちと言うからには他にも猫がいるのだろうか。さして広くない部屋の中には見当たらない。
「わたしは、ふっくらしたねこの王さまです。あなたの布団は実に心地よい。本日は、わたしの姫とお邪魔しております」
王さまは、満足そうにごろごろと喉を鳴らした。
ふっくらと自称するだけあって、たしかによく太っていて、かわいい。手を伸ばして背中を触ってみたいけれど、王さまには失礼だろうと我慢する。
しかし、姫と呼ばれた猫は見当たらなかった。
「王さま、ゆっくりおやすみください。お茶などお出ししましょうか。それと恐れ入りますが、お姫さまはどこにおいでですか」
今年もきちんと正座をして、来賓に失礼がないようする。
なんせ王さまだ。去年貰った、マリアージュフレールの茶葉がまだあったはず。ぬるめのミルクティーにして出そうかと思案を巡らす。
いや待て。猫に玉ねぎをあげてはいけないと耳にしたことがあるが、紅茶は大丈夫だっただろうか。かつおぶしか小魚のほうがよいだろうか。蟹と刺身はさっき全部食べてしまった。
「妻は、ここにおりますよ」
王さまは、愛おしそうに香箱の中を覗き込んだ。
しかし、何も見えない。
「どちらでしょう、灯りをつけてもよろしいでしょうか」
「無論です。お茶は結構です、急な来訪にも関わらず、お心遣いに感謝いたします」
うちの来客は、今のところ誰も何も飲み食いしない。口が綺麗だ。
灯りを点けたが、どうにも何もない。わたしが目を凝らしているのがわかったのか、王さまは言った。
「わたしの妻、ごまのお姫さまは、とても小さいのです」
なるほど、それでは見えづらい。
王さまの奥さまは、ごまのお姫さまなのか。
そう思って見なおすと、確かに香箱のなかに、小さな粒みたいなものがある。
鼻くそ、ではない。
「奥さまにご挨拶するのに虫眼鏡を取って来ます。覗かせていただいても、失礼ではないでしょうか」
「ええ、構いません」
王さまはふっくらと鷹揚に微笑んだ。
急いで立ち上がり、はさみやホチキスを入れてある引き出しから虫眼鏡を持ってくる。前に使ったのはいつだろう。備えあれば憂いなし、だ。
「では、失礼いたします」
王さまと向かい合うように腹這いになり、香箱のなかを覗きこむ。
いた。
ごまのお姫さま。小さなごま粒のお姫さまは、チュチュみたいなドレスの両端をつまみ、優雅に挨拶をしてくれた。声は聞こえなかった。
「お姫さま、いらっしゃいませ。お二人ともおくつろぎください。わたしはこたつのほうにおります。いえ、慣れておりますのでお気遣いなく」
お姫さまを吹き飛ばさないよう息を押さえながら言うと、腹這いのまま、ゆっくり後ろに下がってからそろそろと立ち上がる。
こたつに入り、わくわくしながら目を閉じると、やはり誰かが語りかけて来るのがわかった。優しい声の語り部だったが、前回と同じかはわからない。
ーごまのお姫さまが目をさますと、目の前には優しい笑顔がありました。
ふっくらと白い毛皮に、ひげがまばらに生えた、ねこの王さまでした。
「今朝は、寒いよ」
たしかに、王さまの言うとおり。
今朝はとても寒くて、暗くて。
それでお姫さまは、少しばかり寝坊してしまったのでした。慌てて飛びおきようとしましたが、領地から少しでも体を出すと外は氷のようでお姫さまの小さな体は、すくんでしまったのでした。
「寝てなね」
王さまは自分が着ていた青い半纏を脱ぎ、ごまのお姫さまの首まですっぽりとかぶせてくれました。半纏からは、ほんのりあまい王さまのにおいがして、お姫さまは微笑みました。
外は、怖いように大きな風の音がしています。
勇敢な王さまは、雨の日も風の日も冒険に出かけます。
スーツに着がえて、薄桃色の肉球を傷付けないよう長靴をはいて出てゆく王さまを見送ると、お姫さまはまた自らの広大な領地をさすらいました。
領地の広さは、ちょうどおふとん二枚分。
ごま一粒の大きさのお姫さまにとっては、とても広いのです。
お姫さまのお父さまは天の国に、お母さまは鶴の舞う国に、妹は音の国の王子さまと結ばれて、それぞれ離れて暮らしているので、お姫さまは大きな領地にひとりぼっちですが、めったに寂しくはなりません。
なぜなら、ねこの国の王さまと、黒い仮面の騎士がいつもそばにいてくれるからです。
領地に、黒い仮面の騎士がひらりと身をひるがえして飛びのってきます。
騎士はまるで赤ん坊みたいな見た目ですが、本当は随分おじいさんです。
なのに、王さまやお姫さまにおなかを見せて転がる無邪気な心の持ち主でした。
騎士の体は真っ白で、常に漆黒の仮面とマントをかむっています。
誰もその素顔を見たことがある者はなく、仮面の下からのぞく瞳は黄色い星のようです。暗いところでピカリと光り、大きくなったり小さくなったり不思議な瞳です。
騎士は、お姫さまの頬を、ざり、ざり、と舐めてくれます。
それはもう細心の注意をはらって舐めてくれるのですが、その舌は荒くて、お姫さまは自分が削れてすりごまになってしまいやしないかと、いつも心配になるのでした。
騎士は領地でお姫さまに抱かれ、ガーグルを繰り返す不思議な旋律をひとしきり歌いあげると、あたたかい櫓に消えていきます。櫓にするりと入ったら、もうそれきり出てはきません。領地の外で騎士に出くわすと「わしを櫓へ入れるのだ」と鋭い声で命令してきます。
実は騎士が自力で櫓に入れることをお姫さまは知っているので、たまに意地悪をして騎士を無視してやるのですが、騎士が「入れるのだああ」とひどく悲しい声をあげるので、結局は命令に従ってやるのでした。
そうこうするうちにお姫さまは、バレエに出かけます。
バレエの神さまはとても厳格な方で、簡単にお姫さまを愛してはくれません。
お姫さまはちんと座り、両手をお膝においてバレエの神さまの仰ることに、一生懸命耳を傾けます。体を柔らかく整え、姿勢をぴんとして必死に回り、踊ります。
なにせ、ごまです。
ぴょんぴょん跳ねるのはすこぶる得意なのですが、難しいパでは足がもつれることもあります。そうして悲しくなったり、嬉しくなったりしながら顔をまっ赤にして領地へ帰ってくると、お姫さまは魔法を使いはじめます。
そう、ごまのお姫さまは魔法が使えるのです。
祭壇の炎を自在に操って、肉や魚を焼いたり。
小さな滝のある泉に渦を巻かせて、布を洗ったりも出来るのです。
ごまだもので、使える魔法はわずかばかり。
でも、その魔法を騎士や王さまと生きる為に使うのが楽しいのでした。
魔法のお礼に、騎士からは稀に心すべてを預けるまなざしと不思議な歌を、王さまからはこの世の生きものが持てるすべてのまごころを贈られて、お姫さまは満たされていました。
お姫さまが魔法を使い終える頃、王さまは冒険から帰還します。
日々の冒険は過酷です。移動する乗り物の中でぎゅうぎゅうにねじれて押しつめられることもある道のりです。
王さまがスーツから半纏に着がえると、お姫さまは今日も一日が無事に終わったと安堵するのでした。
お姫さまは、そもそもはお姫さまではありませんでした。
まだ一粒のごまだった頃、一匹の白く輝くねこと出会いました。
若ねこは、惜しみなくごまにすべてを与えてくれました。
ごまをもっと幸せにしたくて、若ねこはやがてねこの国の王さまになり、今も冒険を続けています。
「あなたは、お姫さまなんですよ」
王さまは、若ねこのころから心をこめて、ごまに言いつづけたものですから、ごまもついにはそれを信じて、とうとうごまのお姫さまになったのでした。最近では、ちいさな頭に白いものが混じり始めましたが、変わらずお姫さまなのでした。
三人でささやかな夕餉を食べ終えれば、もう一日はおしまいに近づきます。
王さまは、ギターを奏でて明日の冒険への叡智を養います。
お姫さまは、明日も王さまのお姫さまでいられるように願い、いいにおいの水を顔に塗ります。二人はお姫さまの領地でともに眠りにつきますが、必ず明け方に目覚めることになるのです。
「みずからは孤独な夜の守り人である」
苛烈なまでの矜持を持つ騎士は、二人と一緒には眠りません。
そのくせ、空が白む頃には決まってその孤独に耐えかねて、大声で二人を起こすのでした。
冬の、ある一日。
そうしてまた、朝までのわずかな時間を三人で眠るのでした。
口元が緩んだまま目が覚めた。
「失礼します」声をかけて襖を開けたが、隣の部屋にはやはりもう誰もいなかった。
ん、と身体を伸ばす。身体が強張っている。
首をゆっくりと左右にひねり、肩を広げる。そのまま布団の上でいくつかのヨガもどきのストレッチをする。
今年も神さまは来なかった。
もしかして先客がいると部屋に入れず、一人で佇んでいやしないだろうか。
身体も強張るし、来客用に布団をもう一組買うべきだろうか。
のびい、と背中をしならせて猫のポーズをとりながら、考える。
まあいい。
一年、ゆっくり考えよう。
しばらくして、陽気が暖かくなったある日の夕暮れ時。
電車の中で、たんぽぽの綿毛が飛んでいるのを見つけた。ふわ、ふわ、と舞うのを目で追っていくと禿頭の人の頭上に着地しそうになった。
そこでは根が下ろせない、と思ったその視線の先に、ドアから出ていく王さまがいたような気がしたが、わたしの気のせいだったのかもしれない。
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