2.クローシの冒険/アナトーリー・ルイバコフ
普通にこの方日本のWikiに出てこないんで、ロシア語のWiki見たら情報が出てきたよ。
とりあえず、この「クローシの冒険」に関して言うと。
11年制の学校の8年生末、15~6の少年少女が「六月いっぱい」自動車工廠への生産実習に行って色々あって終了するまでの話。
主人公で語り手のクローシ(クラシェニンニコフ)はまあ全体を見渡す力はあるんだけど、今一つ伝えるのには弱いのかな、と思える少年。
クローシャと呼ばれることもあるけど、それは「ちびっこ」という意味なので好かない。
少年運転免許証持ち。
思春期らしくうだうだ考えたり、女の子の好意に気付かなかったり、真っ直ぐ過ぎて暴走したり、というタイプ。まあ「語り手」である時点で、文章の中では多弁。
この話の中では「車庫」係。洗車・給油・整備・簡単な修理・予備検査をする。
そんで他キャラとして、
・イーゴリ……映画大学志望で、モブとかもやってる。何かと言い出しっぺだが、自分でその責任を全うすることはない。仕切り屋。物事の切り出しと扇動は上手いタイプ。兄が「モスクウィッチ」という車を持っていて、後半では運転もしている。
・ワジム……当初はイーゴリの腰巾着。後に彼の性格に気付いて離れて行く。「うでききの商売人」。取り替えっこをしたり、物を何処からか集めてくるのに長けている。
・ナターリヤ先生……普段はイーゴリを誉めていたが、最後には彼の性格に問題があることは分かっていて、この実習で良くならないか、と思っていた。
・グリニコ……電気屋。電気係へ。
・アレフィエフ……無線屋。電気係へ。
・ポレクーチン……エンジン係。最終的に他より良い免許をもらう腕利き。
・ガルクーシャ……塗装係
・ロジェストウェンスキー……塗装係
・ピョートル……クローシと同じ「車庫」係。無口だが頼れる奴。同じアパート住まい。
・マカーロフ……実習まとめの書記。
・ソロウーヒン……「見学実習」しがちな一人。
・レズビャコフ……溶接係
・スミルノフ……溶接係
・タラノフ……組み立て係
・マイカ……学校で一番綺麗な女の子。頭もよさげ。明らかにクローシに気があるんだが、クローシはその辺りをあえて無視しようとしている感。
・ナージャ……マイカの友達
・ヨルカ、リューシャ、ニコライ……海水浴で出会ったイーゴリの知り合い
こういったメンツが、ぼろ自動車を皆で修理して乗れる様にするとか、「ゆれ止め」部品紛失事件、輸送中の事故、クラブのダンスパーティ、海水浴等々を通して成長していく? 話。
成長でなくとも日常、でもいいんだろうけど。
自動車工廠の話なので、「小型自動車モスクウィッチ」「ガース51型トラック」「大型自動車ポベーダ」とか出てくるのもこの時代のソ連の車事情が見えて面白い。
ガース51に関してはWikiによると
>GAZ-51は、GAZによって製造されたトラックである。最初期のモデルは第二次世界大戦の終結前に製造された、スチュードベーカーUS6の影響を受けている。量産は1946年に始まり、1975年の生産終了までに、全ての派生型を含め、計348万台以上が生産された。
ということ。モスクウィッチは
>モスクヴィッチ(Moskvitch) (ロシア語: Москвич)は1930年から2002年に破産するまで存続した旧ソ連・ロシアの自動車メーカーである。同国の代表的な小型ファミリーカーとして知られた。「モスクヴィッチ」とは「モスクワっ子」という意味である。
>丈夫で比較的手頃な価格の乗用車として広く用いられ、西欧・東欧諸国にも広く輸出され、1966-90年にはブルガリアでノックダウン生産、1960年代には少数が日本にも輸入販売された程であったが、1970年からフィアット・124をベースとした西欧流の設計のジグリ(輸出名ラーダ)の生産が開始されると、人気を奪われるようになった。
ポベーダは
>GAZ-M20 ポピェーダ
とWiki日本版では出ているんだけど、ロシア語版を訳すると「ビクトリー」になってしまう。まあ要するに「勝利号」なんだわな。
>M20ポピェーダ(M20 Pobeda、ロシア語: М20Победа、Победа)は、ソビエト連邦(ソ連)の国営自動車工場GAZによって開発され、1946年から1958年まで生産された中型乗用車である。
愛称「ポピェーダ」(文献によっては「ポペーダ」「ポベーダ」)は「勝利者」の意味で、1945年に大祖国戦争(独ソ戦)に勝利したばかりの、当時のソ連における国威発揚的な意義があった。
単語的には「パベーダ」って感じなんだけどね。
で、作者。
アナトーリー・ルイバコフについてはもうロシア語版が一番詳しい訳ですが。
>1930 年に彼はモスクワ交通工科大学に入学しました。1933年に彼はコムソモールと研究所から追放され、その後一時的に復帰した(A.ソルツとの接触後)。
1933 年 11 月 5 日に彼は逮捕され、OGPU コレギウムの特別会議によって第 58 条の 10 (反革命扇動とプロパガンダ) に基づいて 3 年間の追放刑が言い渡されました。亡命の終わりに、パスポート制度のある都市に住む権利がなかったので、彼はロシア中をさまよった。彼はアンケートに記入する必要のない場所で働いていたが、1938 年から 1941 年 11 月まではリャザン地方自動車運輸局の主任技師を務めた。
1941 年 11 月から 1946 年まで、彼は赤軍の自動車部隊に勤務しました。1942 年 7 月以来、彼はモスクワの防衛からベルリンの襲撃に至るまで、さまざまな前線での戦いに参加しました。最後の役職は第4衛兵ライフル軍団(第8衛兵連合軍)の自動車サービス部長で、階級は工兵少佐であった。戦闘での功績により、彼には前科がないと認められた。1960年に彼は完全にリハビリされました。
作家としては、1950年にヒット作があった後に児童文学書いて、まあ色々と精力的にやった後に
>1978年に小説「重い砂」が出版されました。この小説は、1910 年代から 1940 年代にかけて、ウクライナ北部の多国籍都市の 1 つで暮らしたユダヤ人家族の生活、数十年にわたって貫かれた愛、ホロコーストの悲劇と市民抵抗の勇気について語ります。この小説は映画化され、2008 年に映画が初公開されました。
と割と近年映画になっているんですな。ご本人は、
>1989年から1991年まで、アナトリー・リバコフはソビエト・ペン・センターの所長を務め、1991年9月からはロシア・ペン・センターの名誉所長を務めた。1991年以来、彼はソ連作家同盟の理事会書記を務めた。テルアビブ大学名誉哲学博士号(1991年)。
A.N. リバコフは、1998 年 12 月 23 日にニューヨークで睡眠中に亡くなりました。半年前に彼は心臓手術を受けていた。彼は 1999 年 1 月 6 日にモスクワのノヴォクンツェヴォ墓地に埋葬された。
日本では「アルバート街の子供たち」だけが1990年に全2巻?で刊行されてるんだけど、これは
>小説「アルバートの子供たち」は 1960 年代に書かれ、1987 年に出版されましたが、大きな喪失と悲劇の時代であった 30 年代の若い世代の運命を描いた最初の小説の 1 つであり、その運命を再現しています。全体主義権力のメカニズムを解明しようとするこの世代は、スターリンとスターリン主義の「現象」を理解しようとしている。この小説は、ヴァシリー・グロスマンが小説『生命と運命』で始めた、スターリン主義についての無味乾燥なドキュメンタリーの物語の伝統を引き継いだものである。2004 年、小説「アルバートの子供たち」に基づいて、同名の連続映画が公開されました。
ですな。連続映画ってあるけど、訳の問題で、要はドラマ化されたってことかな。
ともかく向こうでは非常に有名な作家ということみたいですけど、日本では……
個人的には淡々とした話だけどざくざく読み進められて面白かったんでやっぱり良い作家さんだったのかなあ、と。
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