3.石の花/パーヴェル・バジョーフ
これは書かれた時代はソビエト連邦時代なんだけど、内容は民話なんだよな。
舞台は帝政で農奴が居た頃のロシア。
というか、そもそもこの作者が帝政ロシアからソ連にかけての人だし、かなり精力的に政治活動していたんだよな……
まあそれは後で。
一応手元には小学館の50巻本と講談社の「少年少女新世界文学全集」のソビエト古典編・現代編があります。
個人的には語り手口調地の文の後者、金子健訳の方が好きですな。
端的なあらすじ。
頑固な孔雀石細工の親方プロコービチのところに、何をやらせても上手くいかない「はらぺこのダニールシコ」と呼ばれる少年が弟子として入って、どんどん才能が開花する。ただそれだけに本当に作りたいものとそうでないものの乖離が起こってしまい、理想とする石の花のある山の中へと婚約者…… というか花嫁のカーチャを置いて出奔。
彼の失踪後、カーチャが嫁としてプロコービチのところに行って世話+生活し始め、自分からちょっとした石細工も教わったりするんだが…… やがてプロコービチは死んで、一人でやってく彼女は石探しに行くと良いものが! これはきっとダニールシコが、と思った彼女は山へ入り石の女王と対面。ダニールシコは彼女や村人を忘れるのはできない、と帰還。
そんで戻って二人でハッピーエンド…… なんだが、時々遠い目をするダニールシコをカーチャも気付くが黙っているという話。
有名な話で、映画やバレエにもなってるんだよな。
ちなみにバレエ音楽の作曲はプロコフィエフ。
これはそもそもは単品ではなく、「くじゃく石(マラカイト)の小箱」という物語集の中の一作なんだと。
Wikiロシア版(自動翻訳)によると
>「マラカイトボックス」(「ウラル物語」 ) -パベル・バジョフによる物語 集、文学的に加工されたウラルの「実用的な民間伝承」の一例。
1936 年から 1945 年にかけて出版された物語は、2010 年までに世界 65 の言語に翻訳され[1]、2019 年までに 100 を超える言語に翻訳されました [2]。
1943 年、著書『マラカイトの箱』により、著者は第 2 級スターリン賞を受賞しました。2013年、「ウラル物語」は、ロシア連邦教育科学省が学童が自分で読むために推奨する「 100冊」リストに含まれました。コレクション「マラカイトボックス」に含まれる物語に基づいて、長編映画やアニメーション映画が上演されました(パベル・バジョフを参照)。
まあロシア版のこのバジョーフに関する記述滅茶苦茶多い。
ちなみに講談社版の紹介だと、
>作者のバジョーフは、一八七九年に、プロコービチやダニールシコのような、ウラルの鉱山の石細工の親方の家に生まれ、子どものときから、ウラルの民話や伝説をきいてそだちました。
二十さいのとき、小学校の国語の先生になってから、こうしたお話をたくさん集めました。
……いやいやいや。
ロシア版Wikiによると、(あ、飛ばし読みでよろしく)
>1879年1月27日(1月15日)、 シセルツキー工場の村で、シセルツキー工場の代かき・溶接工場の労働者ピーター・バジェフ(元の姓)の家族に生まれた。(中略)
1905 年の革命中、彼はメーデーの集会に参加し、一時的に逮捕されたこともありました。
1907 年から 1913 年にかけて、彼はエカテリンブルク教区女子学校でロシア語を教えました。(中略)
1914年、第一次世界大戦の勃発に伴い、バジョフ一家は妻の故郷カミシュロフ市に移住し、バジョフは地元の宗教学校で教師としての職を得た。夏休みの間、彼は民間伝承を収集しながらウラル山脈を旅しました。収集された資料は南北戦争中に紛失しました。
1917 年まで彼は社会革命党の党員でした。(中略)
南北戦争中、彼は政治活動家となり、カミシュロフで編成されていた第29師団の新聞編集者となった。軍隊では、彼は正式にRCP に加わりました (b)。コルチャック軍の攻撃を受けて師団とともに西へ後退し、1918年末にペルミにたどり着いた。師団の敗北後、彼はコルチャクによって逮捕されたが、刑務所から逃げることができ、カミシュロフに向かった。家族が監視下にあることを知った彼は、1919年の初めにオムスクへ赴いたが、地下組織から与えられた投票所は空だったことが判明した [7 ]。キリバエフという名前の偽造文書を持って歩き回った後、バジョフはカインスクで学区の学校の教師不足についての会話を耳にし、2月までに[8]トムスクのベルグル村でゼムストヴォの教師として職を得ることができた。そこで彼はコルチャクに不満を持つ人々からの党派的な分遣隊を組織した[9]。
7月にバヒーエフという姓でセミパラチンスク州のウスチ・カメノゴルスク市に移住した[10]。地下組織に参加し、アルタイ人民反乱軍の一部として「レッド・マウンテン・イーグル」のパルチザン組織と協力し、レッド・モスクワの指示に基づいて活動した。1919年11月に赤パルチザン分遣隊の指揮官がヴァシリエフカ村に集まった後、彼は彼らを一つの部隊に団結させた。
ウスチ・カメノゴルスクにおけるソビエト政権の確立(1919年12月15日)と、M.コズィルの反乱農民軍とレッド・マウンテン・イーグルスの統一分遣隊のP.バジョフ中隊が市内に入った後、地下組織は新しい議員ソビエトを組織し始めた。しばらくの間、二重権力が残った。新しいウスチ・カメノゴルスク議員ソビエトは人民院に座り、コズィル軍の本部はシベリア・コサック軍第3部門の旧部門にあった。バジョフはセミパラチンスクに情報を伝えた。1920年1月後半、赤軍正規軍の3個連隊がウスチ・カメノゴルスクに派遣された。コジレフの軍隊は事実上戦うことなく解散し、彼自身も逃亡した。コズィル率いる蜂起の準備に対する弾圧を組織したのは、当時バヒーエフ(バフメティエフ)という偽名で活動していたバジョフだった。[出所不明 】
新設された革命委員会では公教育局長に就任し、労働組合局長も務めた。その過程で、彼は編集者となり、本質的には地元新聞「ソビエトの力のために」の主催者、発行者、ページマネージャーとなった[11]。将来作家となるヴォルコフとアノフは彼と協力した[12]。同時に、彼は「公教育省の業務の全般的な監督を維持する」義務を負った。彼は教師コースを創設し、文盲をなくすための学校を組織し、リッダー鉱山の修復に参加しました。。1920年7月、彼の参加で訓練を受けた87人の教師がカザフスタンの郷に派遣された。1920 年 8 月 10 日、バジョフと N. G. カラシニコフの指導の下、第一回ウイズド ソビエト会議が市内で開催されました。1920 年の秋、彼は食糧横領のため特別に認可された郡食糧委員会として食糧分遣隊を率いました。1921 年の秋に彼はセミパラチンスクに移り、そこで労働組合の地方局長を務めました。
1921年末、重病のためカミシュロフ執行委員会の要請により、彼はウラルのカミシュロフに戻った(主な理由は、コルチャク統治時代の彼の不作為に対するセミパラチンスク州チェーカーの非難であった) )、そこで彼はジャーナリスト活動と文学活動を続け、ウラルの歴史に関する本を書き、民間伝承の記録を収集しました。最初のエッセイ本『ウラルは』は 1924 年に出版されました。1923年から1931年にかけて、彼は地域のクレシアンスカヤ・ガゼータで働いた。
ガゼータは「新聞」ね。
だからまあ、確かに教師もちょいちょいやってるんですが、「お話をたくさんあつめ」るまでにこれだけのことが起こっているんですな(笑)。
牧歌的な「教師やりながら集めました~」では全然無く、ざっと眺めただけでも、殆どロシア革命のために動いてるんですよー(笑)。中略部分には結婚とかもあります。
それ以前にお父さんは工場の労働者ですがなー。
こういうところがこの年代の少年少女向けの作者紹介の怪しいところなんだよなあ…… 作者に夢見すぎというか、実際のことは伝えないのか、そもそも伝えられていないのか。
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