百蓮華忌諱原典

旧川藤治郎

白業之章


 ─浄土にて─


「見て! あのお花! とても綺麗に咲いてる!」

「ああ! ほんとだ! 綺麗なお花が咲いてる!」

「綺麗な、お釈迦様のお花が咲いている」

 

 愉快に笑いながら、無垢な童たちは極楽の池の辺りを廻り歩いている。彼らはどこまでも無垢である。どのように眺めようとも、如何に汚泥に塗れた視線を向けていたとしても、ただただ無垢であった。その澱の無さは、いっそ、あわれなほどであった。

 

「この蓮華、奈落から伸びてきているではないか。なんと、あわれなことよ」


 何も知らぬ童共は、釈迦の独白に気付かぬ。

 



 ─穢土にて─

  

     一


 日出国。その天平の時代のことです。当時は最も貴き御方が、都の東にある山金里の金光明寺というお寺に、それはそれは大きな仏像を作るのだと仰って、自らも御出でなさって役夫に紛られ、大仏造立の詔、その大願成就がために、その地の神々を祀られていたといいます。

 

 そのような話がかろうじて耳に入れることが出来る程には人里離れた、静かな山麓に一つ、廃れ荒れた、名も無き小さな寺がありました。その廃寺には禅応という老尼が住み着いており、さも当然のように修行に励んでいたのです。彼女にはかつて賢い弟子たちがおりましたが、当時の京では、尼が授戒することはよしとされず、好き勝手に教えを説くことも禁じられてしまったため、弟子たちは皆それぞれが慕う別の僧の元へと足を運んだり、僧尼であることを辞めたりと、散り散りになってしまっていたのでした。


「禅応様、やはり、私も残ります」

「いいえ、いいえ。お前は、お前の道を歩みなさい。わたくしは大丈夫。それに、ただでさえこうして迷惑を掛けている。これ以上はもう、十分」


 しかしながら、禅応には、彼女のそのような境遇を諒さず、唯一師の元に足繁く通い続けた、恵禅という弟子がおりました。彼は禅応を慕い、三日に一度、必ず食料や氷を届けるようにしていました。それが純然たる敬意から転じた力添えなのか、傲慢さから転じた施しだったのかは、今はもう誰にも分かりませんが、彼のこの行いにより、禅応は老体の身でありながらも、独り廃寺で暮らし、生きていくことが出来たのかもしれません。それでも、彼の行く末を案じていたのか、極力彼に頼ろうとせず、自分一人で生き果てようとするあまり、少しばかり突き放すような態度をとる彼女に対し、恵禅はいつも、何度も振り返りながら去っていくのでした。(さながら、子が母を慕うかのような仕草で)

 

 禅応は、そんな恵禅の背が小さくなり、やがて見えなくなってしまったことを認めると、軋む御老体をえいと引きずりながら廃寺の中に戻り、炊事場に移りました。そこには、溝で溺れていても気付かないような毛色の、疫病に罹って所々禿げた鼠の家族が、厚顔無恥なことに、我が物顔で這いずり回っています。禅応はそんな汚らしい畜生共を忌み嫌うこともなく、こそ泥の生まれ変わりがのさばるのを許して、炊事場の端にある、小さな小さな氷室に食料をしまい込みます。ところが、氷室の中には腐りかけの野菜が見られましたので、禅応は、まあ大変、なんたる怠惰を犯してしまったのだと自らを戒めながら、虫のついたそれらを取り出して竈門の上に置くと、寺の裏にある井戸へ、野菜を洗うための水を汲みに向かいました。


 禅応が裏庭に出て、まず一番に目に入れるのは、普段から手入れを行っている小さな池です。その池は小さくはありながらも、澄み切った清らかな水が張り、青々とした蓮葉がちらほらと首を擡げている中では、なんともいじらしくて尊い、まだ少し緑がかった一輪の白蓮の蕾が鎮座している、禅応のみぞ知る小さな極楽でありました。禅応はこの、今にも咲かんとしている白蓮の花が愛しくて愛しくて、まるでややこにそうするかのように、柔らかな声で語りかけます。

 

「なんと尊いこと。きっと、お釈迦さまでさえ、あなたが愛しくてたまらぬことでしょう。わたくしなどが独り占めしてしまうことが惜しいですが、目に入れただけでこれほどまでに満たされてしまうのですから、きっとこれは天のお恵みなのでしょうねえ」

 

 尊い、尊いお花だと、禅応は両手の皺を合わせて、その花を愛でます。常々行われる彼女の愛撫めいた声かけに、白蓮は些か擽ったさを感じながらも、ようし、必ずやそのお声に応えましょうと、気張ることさえありました。この白蓮は、あまりにも禅応が可愛がったものでしたから、いつぞやの日か心を持つようになっていたのです。そして、己というただの花を、人のように扱ってくれ、愛してくれる禅応に、いつか恩返しをしたいとさえ思っていたのでした。


     二

  

 からりと晴れた夏の日のことです。

 日柄も良く、乾いた土の香りと茂った青草の香りが混じり合い、鼻をくすぐるような臭いがする風が、緩やかに流れる昼時でした。

 廃寺の裏では、まア。と、老尼が独り感嘆の声をあげています。彼女だけの極楽の中心には、それは美しい、見事な一輪の白蓮が咲き誇っていました。その蓮華の白さといったら、天上楽土の光を秘めたかの如く清らかで、花弁の先の薄桃色の、なんとも優美で暖かいこと。仄かに鼻を掠める香りも涼やかな甘さがあって、この花のそばにいるだけで、心は八面玲瓏として晴れ渡るようでした。禅応は今にも舞いだす勢いで喜んでいましたが、それが引き金となってしまったのか、激しく咳き込みます。そして、我が子を心配させんとする母のように、胸元を押さえてその花を視界に収めた後、なんと尊いことだと手を合わせていました。

 

「感謝仕ります、お釈迦様がわたくしめに、斯様な恵みを与えてくださった。ああ、あなた。とても頑張ったのね。美しい、なんと美しい。良い子、良い子ですねえ」

 

 相も変わらず、否、それ以上に禅応は、廃寺の裏で美しく咲く白蓮を褒め讃えます。一方で、白蓮は愛される喜びの裏で、少しばかり、己の心に翳りを認めていました。

 

 ──この方は、咳をなさっている。

 

 ──よもや、病にかかっているのではなかろうか。


 と、このような不安が、取り払えずにいるのです。白蓮はかねてより禅応に恩返しをしたいと思っておりましたから、その相手が自らの願いの成就よりも先に亡くなってしまうということほど、無念なことはありませんでした。とはいえ、人間である禅応に、焦る白蓮の気持ちなどわかりません。一人で自らを戒め、そして独り野晒しになることを覚悟している禅応に、彼女に恩を返したいと望む白蓮がいることなど、どうわかりましょうか。白蓮は、歯痒くてたまりませんでした。花は人と話せぬ、歩めぬのが現世の理だということなど、本能で理解しておりました。そして、その理を破ってはいけないということも。ですが、この白蓮の花に躊躇いはありませんでした。現世の理を破るということは、この世ならざる者になるということでしたが、白蓮にとっては、禅応に恩返しができるのであれば、他のことなどさして気にも留めない気持ちでいたのです。

 

 それからしばらくの間、こんこんという乾いた咳を聞きながら、白蓮は禅応の暮らしの様子を眺めていました。枯れ枝のような腕に雀の足のような指をして、それでも、独り気丈に生きています。時折こちらを見る眼差しは暖かく、無邪気に遊ぶ子供を眺めているかのようなものでした。その優雅な佇まいの隙間に、轟くような咳の音が滑り込みます。白蓮は、彼女を蝕む病の音に、心底怨みがましげに耳を傾けながら過ごしていたのですが、やがて橙色の光が人々の寂寥を地へ焼き付ける時を過ぎ、煌々と瞬く星がはっきりと見えてきて、人々が夢路を辿る頃、彼は少しの間だけ沈んだかと思うと、白い、人の手で水面を掴んで、波紋の広がるその上へ這い上がり、小さな浄土の池の水鏡の上を、ぴたりぴたりと歩いてみました。人を模倣したその体の何故動けるか、どう動くのかなどの道理は知りませんでしたが、それでも、日中眺めていた禅応の動きを思い返しながら、しっかりと、着実に踏み出していました。こうして一通り歩くことに慣れた白蓮の花精は、寺の土間に忍び込むと、禅応の見様見真似で、炊事場の掃除を行いました。白蓮は、生まれてからそう月日も経っていないためか、未だ幼さの残る少年のような姿形をしておりましたが、それでも禅応のためを思いながら、薄暗い夜の中、愚かで薄汚い鼠畜生共を炊事場から追い出し、埃を掃き出し、氷室の中の野菜を清めて、空の漬物樽の中に蕪と塩を詰めては蓋をして、石を載せた後、曙の光に照らされながら、そろそろと池の中へ戻って行ったのでした。


     三


「おや、おや。なんということ」

 

 お天道様が漸く人々の前に姿を現した頃、禅応は、普段は当たり前のように炊事場に居座っているはずの溝鼠がいないことや、拵えた覚えのない漬物樽があることに気付き、驚嘆しておりました。

 

「まさか、恵禅。イヤ、そのはずは。彼は普段、表門から……気のせいでしょうか。イイエ、イイエ……」

 

 困惑している禅応でしたが、うろうろと裏庭へ出てくるなり、小さな池に悠々と咲いている白蓮を見ると、いつものように膝をついて、やや困ったように声をかけました。白蓮は少しばかり焦りましたが、かけられたその言葉に、心中で胸を撫で下ろしました。同時に、その深き愛に、いくら悪事ではなくともこそこそと悪者のような立ち振る舞いをしていたことが、恥ずかしく思えてしまいました。

 

「あなただけが、知っていることなのかしら。でも、あなたが無事なら、よかったわ」

 

 ──ああ、尊いというのは、この御仁のことをいうのではなかろうか。僕は、貴方のお許しなく、勝手に住まいにお邪魔しました。堂々とできぬこの身が恥ずかしい。どうかこの無礼と身分を、お許しください。

 

 白蓮はそう返したかったのですが、ここで話そうものなら、忽ち禅応を驚かせ、咳が出るどころではなくなってしまうことを恐れ、ただ花としてそこに佇んでいることしかできませんでした。

 

 それからというもの、禅応の身の回りでは、神妙なことが続きました。用意した覚えのない漬物があったり、廃寺は、まるでそのようなことはない、普通の、どこにでもあるようなお寺のように清潔が保たれ、連日悩まされていた雨漏りすら起きておりません。加えて、普段左を向いて眠る癖があったせいでできていた左腿の褥瘡は、治りつつあるのです。三日に一度は様子を見にくる恵禅に探りを入れても、「わからない」「身に覚えがありません」「御師様の徳が高いから、お釈迦様がお恵み下さっている」というばかり。これは流石におかしい、度牒も持たず、授戒を禁じられ、嫌厭されているこの老尼の身を助けてくれる者など、いない方が道理に適っているはずなのに、と禅応は不可解に悩まされているばかりでした。しかし、禅応はさらにもう一つ、不可思議なことに気がついていたのです。それは、日頃愛でている、あの小さな極楽に鎮座している一輪の白蓮のことでした。本来蓮華という花は、そう長くは持たないのが必定です。しかし、尊い至純のあの花は、一度咲き誇ってからというものの、幾十と朝夜を超えても、一向に散る気配も、萎びる様子すらないのですから、禅応は何と非道な考えかと己を戒めながらも、日頃自分が愛でている白い蓮華は、もしや妖の類ではないのかと、疑い始めてしまったのです。

  

 ──あのような尊い花を疑うなど、あってよいものか。いいや、ない。しかし、狐狸に化かされた、という話も聞く。いずれにせよ、ものの真理は見極めねばならぬ。 

 ──愛しき尊いお花、お釈迦様、どうかお許しください。 

 

 斯くして禅応が腹を決め、廃寺に起こる神妙な出来事の顛末を知るべく、他に奇奇怪怪はおらぬかと注意しつつも普段通りの生活を行い、夜更けになった頃。彼女が狸寝入りをしていると、ひたひたと、裏庭の方から足音が聞こえてきました。息を潜めて寝床から様子を伺うと、その者の足音が、妙にこちらを気にしていることがわかります。古い木の床を静かに踏み、足底と砂粒の擦れ合う音が微かに聞こえ、それが自身の元へと近づいていることがよくわかると、禅応は筵の下に隠しておいた杖を握る手に力を込めました。盗人、悪鬼の類であれば、この杖で叩きのめしてやると言わんばかりでしたが、そっと自身の背に添えられたその小さな手に、禅応は直ちに考えを改めたのでした。

 

 ──この御手々は、まだ童ではありませんか。


 よもや孤児ではあるまい、と思えば、自然と情が湧いてしまうのは、彼女の、母としての本能によるものだったのかもしれません。耳を澄ませていると、童が息を詰め、思いもよらぬほどの力で禅応の身を仰向けにします。禅応はその行いに対し、ゆっくりとその瞼を開けると、言葉を失いました。

 

「あっ」

 

 禅応は、ひと目見た瞬間、その童はあの白蓮であるとわかりました。神々しいほどに白い肌はさることながら、頭髪さえも、薄らと煌めいているのではと思うほど暖かな白色をして、さらには、あの清らかな白蓮の花びらのような、桃の色をした髪先を持っていたのです。加えて、その優美な佇まいからは、人の子の持つ乳臭さがまるで感じられませんでしたから、尚更のことでした。

 禅応が起きていたことに対し、白蓮もまた同じように驚いているようで、しかし彼女の身を案じてか、決して慌てふためくことや、逃げようとすることはしませんでした。ただただ禅応に対し、黙って寺の中に入り、思い思いのことをしていたことを詫びようとして、言葉を探しました。しかし、禅応はこの白蓮に悪意など微塵もなく、むしろ、自分を気遣ってくれていたのだということを見抜いていたようで、白蓮が言葉を紡ぐ前に、そうっとその瑞々しい柔らかな髪を、皺と血管の浮き出た老いた手で、撫でてやったのです。

 

「わたくしのために、してくれていたのでしょう。怒ってはいませんよ。ありがとう。尊い尊い、優しい子」

「そんな。ああ」

「やっと触れられたこと、とても嬉しく思います」

 

 蓮華という花は、美しくはあれど、大抵が池の中心に咲いているものですから、人の手の届くところに在らず、そして人の掌の暖かさを知りません。しかし、初めて感じたその温もりに、白蓮は何故か安らぎを覚え、思わず涙してしまうのでした。


     四  

  

 互いの存在を理解した禅応と白蓮は、まるで親子のように過ごしました。白蓮は老体の禅応を気遣い、彼女の身の回りのことを進んで取り行います。寺の掃除もすれば、共に飯を作ったし、少しでも善き妖としてありたいからと、彼女から仏道を学び、修行に励みました。そんな健気な白蓮の花精に対し、禅応は、段々と自分の道を生きよと突っぱねる気を失くしていってしまったのでした。今まで教えを伝えてきた弟子の誰よりも儚く見えるのに、この白蓮ときたら、とことん捨身を極めて、禅応に恩を返すことしか考えていないのです。したいことは無いかと聞いても、首を傾げるばかり。挙句の果てには、


「禅応さまに、おんをかえすことだけが、ぼくのやりたいこと。もしも禅応さまがお亡くなりになられたとき、ぼくもまた、かれはててしまおうかと」


 等と言う始末でした。


 これを受けた禅応は、思わず口を結びました。

 こんなに良い子なのに。誰からも愛されて然るべき、この世で最も尊い良い子なのに、こんな死に損ないの老耄のためだけに生き、そして枯れ果てるなど、なんと可哀想で、あるまじきことなのだと、そう思ったのです。押し黙った禅応に対し、申し訳なさげな表情をする白蓮を見ながら、禅応は決心しました。

 ならばこの余生は、この子が世間を渡り、一切衆生から敬われ、最期は満たされた気持ちで果てられるようにするために使おう、と。


「白蓮や、わたくしはあなたを、今生最後の弟子にしたく思うのです」

「えっ。よろしいのですか」

「ええ。わたくしは、あなたに色々なことを見て、知ってほしい。知って、思うがままに生きて、あなた自身を手に入れてほしい。そんなあなたを尊ぶ者達と出会って、多くのものに囲まれ、愛されてほしい。俗に塗れてはおりますが、それこそが、わたくしがあなたに求めること」

「……ぼくじしん、ですか」

「そう。わたくしが死んだ後、あなたが一人になってしまわないように」

「しんだあと──」

「変えられぬ、現世の理です」

「禅応さまは、しんでしまうのですか」

 

 禅応は今にも泣き出してしまいそうな顔をする白蓮に対し、厳しい顔をしようとしました。しかしながら、それは優しすぎた彼女にとって非常に難しくて、胸の痛む、残酷なことでした。つう、ぽたり。と白蓮の頬を流れる純朴な雫の、尊く美しいことといったら。わあんと大声も出さずに、さめざめと泣いている白蓮に、禅応は仏道を歩んだ道を後悔するほど胸を痛めてしまいました。ですが、こう涙を流されたからといって、抱きしめ、あやし、慰めているだけでは、一から十まで何もかも人の手無しでは生きていけない、それこそただの花と変わらない存在になってしまいます。その場を凌ぐために、死期が迫ってきているという事実を隠し、自分は死なないと嘘をついて騙すなど、もってのほかです。禅応は、これから自分が歩んでいくであろう俗世では、恐ろしい者や狡猾な者が、当然のような顔をして蔓延っているのだということを、一刻も早く、白蓮に知ってほしかったものですから、唇を引き千切れんばかりに噛み、滲んできていた涙を枯らして、鬼のような顔をしました。

 

「これッ。男が、容易く泣くものでは、ありませぬ」

「ひゃあッ」

 

 白蓮は、突如として飛んできた老尼の鋭い怒鳴り声と、その鬼のような面相に、肩を竦めました。この廃寺(というには言葉が過ぎるほどに、清められてはいたのだが)では、常に緩やかな静寂が保たれていたものですから、白蓮は初めて聞いた怒声に、心底恐ろしい気持ちになってしまいました。この怒声をあげたのは、誰か。それは目の前の禅応である。と彼が認めた時、とてつもない悔いが彼を襲いました。白蓮は、禅応はそう簡単に心を荒ませる者ではないと理解しておりましたから、彼女は自身を思いこうして叱ってくれているのに、一瞬でも、たとえちょっとでも恐れてしまった自分が恥ずかしく、情けなかったのです。ですから、白蓮は決して許しを乞うことはしませんでした。禅応は、聡明な彼が何かを悟ったのか、打って変わって些か乱暴に白衣の袖で涙を拭い、背筋を伸ばした様子を見て、少し安心しながらも自らも姿勢を正し、改めて向き合います。


「白蓮や。この禅応の願い、叶えてくれますか」

「はい。禅応さま。ぼくはもうなきませぬ」


 それは、まるでお釈迦さまの後光のような、燦々とした眩しい光が雲の隙間から漏れ出ている、昼時のことでした。これ以来、寺裏の小さな極楽に白蓮が戻ることは無かったのですが、それでも禅応は、その池を放っておくことなどありません。愛しい白蓮の生まれた場所だとして、毎日その池を清く保つよう心がけていたのでした。

 

     五

   

 こうして白蓮は、蝶よ花よと愛でられるだけの禅応の息子ではなく、彼女を通して仏の教えを授かり、後世にそれを伝えんとする弟子となったのでした。禅応から呼ばれていた白蓮という名前も、単なる花としての通称であったため、いずれ俗世で生きていく一人の名前として、禅応の名から一文字頂戴し、抄禅という名を名乗るようになりました。禅応との生活のなかで、人や他者と暮らしていくのに必要な作法や所作、言葉などの知識を順調に蓄えていった彼は、当然この名の意味も、確りと考えた上で決めておりましたが、禅応はこの名前にしたいと彼が決めた時、どこか心配そうな眼差しで、彼の美しい、玉のように白い肌を保つ顔を伺っていたものです。

 

「抄禅。どうしてこの名を?」

「はい。私はもとより、妖に御座いますから、どの生き物よりもいっとう悪く、煩悩に弱い、愚かな奴です。そう簡単に悟りを開くなど、どうできましょうか。いいえ、きっとできるはずがないでしょう。ですから、人よりもうんと、精進しなくてはなりません」

「自戒、ですか」

「はい、仰る通りに御座います」

「まア……熱心なものです。ですが、くれぐれも見誤らぬよう。時には、一休みですよ」

「はい、禅応様。御心遣い、感謝申し上げます」


 恭しく頭を下げ、教えを乞う抄禅からは、かつての涙を流す儚い童子の面影は感じられません。ただ、禅応の願いを叶えるべく邁進し、世のため人のために生き、皆から愛されるような、そんな立派な僧になろうとする心意気で、彼はすくすくと、真面目な男子に育っていきました。さらには、元より抄禅自体が、禅応のために万能を目指して、早く大きくなりたいと願い続けていたためか、彼が禅応から教えを授かり始め、二年も経つころには、すっかり禅応の背を追い抜いて、冠も被れるような風貌となっていたのです。これにはさすがの禅応も、妖というものはここまで早生なのかと感心しつつ、一周回ってよもや短命になるのではあるまいと心配し、彼が漬物石を持ち上げる時でも、物を食べる時でも、寝る時でさえ、体は軋まないかと身構えるほどで、抄禅はほんの少しばかり参ってしまい、共に炊事場の掃除をしていた最中、悪知恵を働かせてこう言ったことがありました。

 

「禅応様、もしや、私が翁に見えていらっしゃるのではございませんか」

「まアッ、失礼な。そこまで耄碌しておりません」

「エエ、左様でございますか」 

「あなたは時折、慇懃無礼な振る舞いをする面がありますね。その様子だと、わたくしは死んでも死に切れませんよ」

「子は親に似るものにございますれば、こればかりはどうしようもありませんので、禅応様もきっと、千年は長生きできましょう」

「これッ。人の心も知れず、ああ言えばこう言う!」

「いたいッ。申し訳ありませぬ、申し訳ありませぬ」

 

 抄禅の慎ましやかな反撃を受けた禅応は、少しずつ頓知をきかせる気丈さ、言い換えれば生意気ささえもつけてきた抄禅を叱り、思わず自分よりも背の高くなった彼の頭を、硬い箒の柄でばしりと叩いたものでした。しかしこの時彼女には不思議なことに、憎いだとか、腹立たしいという気持ちはなかったのです。それどころか、ますますやんちゃ盛りの息子を持ったような気持ちになって、今までの杞憂が嘘のように晴々とした気持ちで、自分は本来、世間では嫌厭されている尼僧の身だということすら忘れてしまうほどに、明くる日明くる日を待ち遠しく思うようになっていったのでした。二人は時として師弟であることを忘れ、親子のように仲良く暮らしていたのです。

 

 とはいえ、そんな抄禅の気丈さも禅応の前だけのこと。元々は優しく聡明で、宛ら花のように繊細な性格をした花精であるのが抄禅でしたから、彼は毎夜、禅応が寝た後しばらくすると、母のように慕う彼女の死が抜き足差し足忍び足と近付いているのを感じて、声を殺し、枕を濡らしていたのでした。禅応との修行の傍ら学んでいた、薬草に関する知識は一時は功を奏していたものの、月日を超えていくごとに、効果は薄まり、病に負けていくように見えていたのです。現世で無闇矢鱈に妖術を使っていてはいけないことも分かっていましたし、薬用の花を咲かせるのだって、まだ若く、妖怪としての力を扱うのが不慣れな抄禅にとっては辛いものではありました。それでも、抄禅は禅応に生きてほしかったのです。自分は己の寂しさ、そして母なる愛への渇望がためだけに、禅応を生き長らえさせようとしているのだ、それではいけない。と、仏の教えを授かった頭では理解しているつもりでも、無垢な心はいずれやって来る喪失に恐怖し、咽び泣いてやみません。彼は厳しくも、変わらず愛情を注いでくれる禅応との別れが、堪らなかったのでした。


 ──悲しみだけに気を取られて、日々の喜びを忘れてはならないというのが、禅応様の教えであるのに。ああ、己の心の、なんと弱きことか。このままではならぬ、このままでは決して──


 抄禅がさめざめ泣きながら悩んでいる中、ふと廃寺の木壁に空いた、少しばかり大きな風穴から外の景色を眺めれば、不遜なまでに聳え立つ金剛山の向こうに、曙の空が顔を覗かせていました。いかん、と思った抄禅は慌てて目を閉じ、必死に無になろうと念じているうちに、いつの間にか眠っていたことに気付きました。それもそのはず、彼は夢幻の中にいたからです。その夢の中で、抄禅は少し若い頃の師に会いました。禅応の若い頃の容姿など知らない抄禅でしたが、優しく人当たりのよさそうな眼差しや、撫でてくるその手つきで、直ぐに禅応だと分かったのです。しかし、禅応様、と呼ぼうとした抄禅の声は、別の者の声で掻き消されます。


 ──母様


 それは、抄禅のものとはまた違った、まだちいさなちいさな、男の子の声でした。


「えッ」


 抄禅は、そこでぱちりと目を覚ましました。普段見ない、はっきりとした、現実のような奇妙な夢に少しばかり面食らいましたが、そんなことよりも気にすべきことがあるようで、怪夢のことはひとまず頭の隅へ追いやり、すぐに起き上がると、自分が横になっていた筵を丁寧に畳んで片付け、忍び足で、物音一つ立てずに禅応の寝床へ向かいます。すっかり大きくなった抄禅は、人間に遙かに近い自分の肉体の扱いに十分慣れていましたから、どう動けばどのような音がするかも、木床のどこを踏めばどのような音が出たかだって覚えていて、禅応に気づかれることももうありません。器用に歩いて静かに彼女の眠る部屋の前までくると、その老いさらばえた身の静かに動くのを確認して胸を撫で下ろし、眠る師の傍に膝をついて、褥瘡が出来ぬよう、その身をゆっくりと仰向けにしてやりました。そして、師が穏やかな寝息を立てているのを聞いて、少しばかり表情を和らげると、またしても音を立てずに歩き、炊事場へ向かうため、部屋を後にします。

 

 炊事場のある土間から見えた裏庭に目を向けると、未だ美しいままの、かつて自分が生まれた浄土の池が見えました。老いが深まり、動くのに一層苦労するようになった禅応は、自らの代わりに、この浄土の池の手入れをするよう、抄禅に頼んだのです。彼女にとってこの池がかけがえのないものなのだとわかっていた抄禅は、なぜそこまでしてこの小さな蓮池だったものを守ろうとするのかを解せずにいましたが、あまりにも幸せそうな笑顔で頼まれたものでしたから、それを口に出すこともなく、はいと頷いて従っていたものでした。

 

 そんな美しい記憶を思い出しながらも、抄禅が澄んだ小池の鏡面を覗き込めば、すっかり明るくなった空と共に、白皙の美しい顔が映ります。彼はその切れ長の目の下瞼に暗い翳があるのを認めると、悩ましげにため息をついて、禅応から未だに離れようとしない病魔のために薬を作ろうとして、炊事場に戻ったのでした。 

   

     六 

 

 抄禅がこの世に生を受けてから、人の生きる世での理を破り、五年の歳月が経った、ある晩夏の日のことです。例の不安によってろくに眠れない日々が続いていたためか、とうとう彼が、生まれて初めて寝坊をした日がありました。というのも、普段と変わらない時間に起きたと思っていましたが、よく煮詰めた米の香りが、ちいさな廃寺の中に広がっているのです。禅応か、もしくは自身の知らぬ者が朝餉を作っているのだと分かった抄禅が、あくまでも後者であることを祈りつつも慌てて跳ね起きると、ちょうど禅応が、ゆっくりと彼の部屋に入って来ました。


「禅応様。申し訳ありません、私の不徳の致す処で──」

「抄禅や」

「は。はい」

「今朝、わたくしの弟子だった者が、食料を届けに来てくれました。その中に、唐菓物があったのです」

「からくだものに、ございますか」

「エエ……米を使った、甘いお菓子だそうです。今日のことは、あとでそれを食べながらお話しましょう」

「は……はい。わかりました。急ぎ、身支度を整えます」

「ゆっくりで、構いませんよ。朝餉は、禅応が作りましたから」

「申し訳ありませぬ」

「よいのです。たまには、己の身も労わらなければ。ここのところあなたは、根を詰めすぎのように見えましたよ」

「滅相もなく……」


 抄禅の頭を、寝過したにも関わらず禅応からのお咎めがなかったことや、朝餉を作れず、禅応の食べ物に咳を鎮める薬を忍ばせられなかったなどが引っ掻き回していました。しかし、彼は禅応との修行や身の回りの世話を最優先とし、新しく増えた悩みの種のことを忘れて、春嵐の如く、とにかく急いで身支度を整えると、咳をする彼女の背中を摩り、老体を支えながら、朝餉のある居間へと向かいます。


「禅応様、御身の具合は如何でしょうか」

「ええ、あなたのおかげで、変わりはありません」

「私は今日、寝坊をしました。何もできていません」

「いいえ、いいえ。いつも、あなたがしてくれていましたからね。禅応は、自慢の弟子に巡り会えました」

「……恐悦至極にございます」

 

 居間に着くと、少しだけ傷み、端の方に黴が生えていた跡のある筵の上には、桧で出来た折敷が置かれていました。その上には欠けたお椀と新品のお椀が混ざって並んでいます。中にはそれぞれ、おもゆやお漬物に、根菜の煮物が入っていました。二人が食べる朝食は、いつもこんなものです。この時代の貴族の人たちは皆、これに加えて魚の焼き物や煮付けだったり、何の悩みもなしにのうのうと生きている鹿や鴨などの畜生を殺して作った汁物だとかを食べていたそうですが、この二人にとっては、最早全く違う世界の食べ物でした。それでも禅応と抄禅はそんなものを欲しいなどとは一度も思わなかったし、この廃寺の生活こそが、何よりも楽しい一時だったのです。春雨の刺すような冷たさも、苔生した柱の香りを運ぶ真夏の熱気も、草木が寂しい色になっていく秋も、多くの生き物が寝静まる凍える冬でさえもが、二人にとっては、どんな富よりも得難い宝だったのでした。

 

「では、いただきましょうか」

「はい」


 折敷の前にそれぞれ座ると、抄禅は、いただきます、と手を合わせる禅応を見て、些か複雑な気持ちになりました。嗚呼、私が寝坊をしなければそのおもゆに薬を入れて差し上げられたのにと、悔やむ気持ちを押し殺しながら彼もまた手を合わせ、お椀に盛られたご飯を頬張ります。ふと自分の折敷を見てみると、普段自分が皿に盛る分よりも、幾分か多いことに気づき、抄禅は己を張り倒してやりたくなったものでした。禅応は、師として、彼がまだ蕾だった頃のような、言葉や仕草で抄禅を甘やかすことは無くなったものの、こういった見えないところにおいては、人一倍抄禅を甘やかしてくれていました。恐らく男子だからというのもあったのでしょう。いつも抄禅の食い分で足りているかどうかを気にして、中食を取るかどうかを、毎日聞いていたほどですから。しかしながら、そうすると禅応の食い分が減ってしまうのも事実。老衰に加え咳をしているのだから、体力をつけ、薬を摂り、何としてでも元気になってほしいというのが、抄禅の想いでありました。人が互いを想う気持ちは、悲しいことにいつの時代でも、こうしてすれ違ってしまうのです。結局抄禅は朝餉を終えてからもずうっと、己に対し悔しいような、憎らしいような気持ちを抱きながら過ごしました。

 

「抄禅や」

「はい、禅応様」

「中食にいたしましょう、今朝言っていたお菓子を食べます」

「わかりました」

「甘くて、美味しいものですよ」

「楽しみにございます」

 

 お日様が天高くから少しずつ降り始めた頃、己に対する慚愧や苛立ちに苛まれながらも軋む文机に向かっていた抄禅に、こんこんと咳をしつつ、禅応が声をかけました。朝方話していた、唐果物とやらを食べるのだといいます。正直なところ、抄禅は自らのしくじりによって生じた悔恨が骨身に染みていたので、甘味と聞いたところで喜ぶどころか、寧ろ申し訳ない気持ちやら罪悪感で気が滅入るばかりでしたから、そんなに旨いというのであれば禅応様にこそ食べていただきたい、自分は一口だけでいいと伝えるつもりでいました。抄禅がそんな意向を抱えて立ち上がり、禅応の体に寄り添いながら居間へ向かうと、ふと使われていない空き部屋から続く庇の向こうで、雲ひとつない晩夏の空が澄み渡っているのが見え、その近くの木々の葉から聞こえる鳥の声が、けりょけりょと可愛らしく転がっていくのを聞きました。加えて、少しだけ冷たくなってきた風が頬を撫でるので、抄禅が禅応に寒くないかと問えば、禅応はくすりと笑って、首を横に振ります。

 

「あすこで、食べましょうか」

「よろしいのですか」

「ええ。こんなに、天気の良い日ですから」

「承知いたしました」

 

 普段食事を取ることのない場所で菓子を食べようという禅応に、少しだけ珍しく思いながらも、抄禅は彼女に頷き、空き部屋の床に敷かれている筵を拾い上げて、庇の木床の上に敷くと、骨と皮だけと言っても過言ではないほどに細い禅応の老体を支え、彼女が座るのを手伝います。そして彼もまたその隣に腰を下ろすと、師の鳥の足のように細く、皺や斑のある両手が、藁の包みを開くのを見ていました。包みを開くと、ふわりと胡麻油の香りが鼻を掠めて、茶色の小さな金袋の形をした揚げ物が、一つ出てきます。閉じ口はまるで蓮華の八葉のようになっていたので、抄禅は無性に親近感を覚え、少しだけその唐果物に対し、いじらしさを感じるようになっていました。

 

「これが、唐果物ですか」

「そう。この形のものは、団喜といいます。硬いので、こうして、割って食べるのです」


 物珍しそうにして眺めている抄禅にくすりと笑みをこぼし、禅応は、団喜という菓子の底を親指で押し上げます。すると、ぱきっという軽快な音がして、団喜に亀裂が生じ、忽ち三つに割れました。抄禅はその菓子から立ち上がる、胡麻油の香りを凌駕した、清らかな香の匂いに気付きます。花精である彼は、すぐにそれらの中に混じる、甘草という薬草の香りに気づき、尚のこと食べる気が失せてしまいました。これは自分が食べるものではない、咳嗽に苛まれているあなたこそが食べるべきものだという思いで、頭がいっぱいになってしまったのです。

 

「禅応様」

「さあ、お食べなさい」

「しかし、禅応様。私はもう、お腹がいっぱいで」

「嘘をおっしゃい。いいから、お食べなさい。お下がりを無下にするなど、あってはいけぬことでしょう」

「……仰る通りに、ございます」

 

 有無を言わさぬ、とでもいうかのように差し出された、美味しそうな匂いのする団喜に、抄禅はそれ以上遠慮することは出来ず、またしても自身に対し情けなく思いながら、団喜の載った藁包を受け取りました。「お前はもう少し上手く嘘がつけぬのか」と自らを叱咤し、すりつぶした杏子が隙間から溢れでている団喜を眺めます。土器の色をした生地には、薬の匂いがする杏子がこれ見よがしにと付着していて、この一口がどれだけ禅応の病体にとって良いものかと思い悩むばかりでしたが、自らの反応を心待ちにしている禅応の視線をひしひしと感じて、ついに居た堪れなくなった抄禅は、白枝の如き指でその一欠片をつまむと、ぱくりと口に含みました。その瞬間、抄禅は数多の香の香りが鼻腔を通るのを感じます。いくら清く保とうと努めても、なかなか湿っぽさの抜けない、苔や黴の匂いを纏うこの廃寺で行う供香の時間を思い出し、きっとここがこれほどまでに廃れていなければ、このように純朴で清浄な良い香りがしたのだろうと、そんなことを考えてしまうような香りです。またそれらの香料の香りが、杏子を包む生地を揚げるのに使われていたであろう素朴な胡麻油の芳醇な香りと、甘い杏子に混ざった薬草の味と嫌味なく混ざり合っているので、清く豊かな風味が、呼吸を行う度に体内に広がっていくような心地までします。 

 

「……美味しい。美味しいです、禅応様。とても甘く、よい香りが──」

 

 抄禅は、団喜の甘露に喜びを隠せず、ただ無邪気に、隣に座る禅応に返しました。しかし、抄禅はそれ以上言葉を続けられません。自らに微笑みかける禅応の表情はいつもの何倍も柔和で、その眼は、仏学に励む日々の中でいつか見た仏画の中の、八葉の台に座してこちらに微笑まれている観音様よりも、うんと穏やかで優しく、しかし極楽に在る者とは全く違った、まさに己に寄り添ったのだったのです。それが抄禅の無邪気な笑顔に、ただただ愛おしげに向けられております。その表情は確かに見慣れていたはずのものでしたが、抄禅は、いつの日かそれを忘れてしまっていたのでした。ところが、なぜか久々に向けられた慈愛に満ちた禅応の眼差しに、彼は喜びや珍しさなどではなく、寂しさを感じます。どうして今、という疑問が生まれ、不安さえ抱いてしまうほどに。

 

 言葉を失った抄禅と、愛し子を見つめる禅応との間に流れた沈黙に、ひょうひょうと、美しい小鳥の囀りが茶々を入れました。涼やかに戦ぐ葉擦れの音がします。抄禅の蓮の蕊のような黄金色をした瞳には、小柄な老尼が、緩慢な呼吸をして、静かに座っている姿だけが映っています。彼の心に訪れてきた感情に取って替わり、びいびいじりじりと鳴く蝉共の泣き声が、どこか遠い別の世界のもののように思えてきた頃、禅応は漸く口を開きました。

 

「大きくなりましたね、抄禅」

「禅応様、どうしてでしょうか。少しばかり寂しゅうございます」

「ふふ。あなたは尊い子ですから、人よりも、人の理を知ることができるのでしょう。抄禅、わたくしはあなたに謝りたいことがあるのです」

「そんな、何を。滅相も無い、謝るべきは──」

「抄禅」

 

 まるで聞きたく無いとでもいうかのように、五月雨めいた声を重ねる抄禅に対し、禅応は厳かに、しかし慈しみを持って語りかけます。

 

「わたくしは師として、弟子であるあなたに厳しく接することはできませんでした。あなたがあまりにも可愛らしくて愛しくて、実の子と等しく愛してしまったから。これはわたくしの甘さです。そして、この甘さが、あなたの、あなたに対する厳しい心を育ててしまった。人前で朗らかに笑い、さめざめと泣き、自らを許すことができないあなたにしてしまった。それを、申し訳なく思っております」

「まさか。斯様な妖、自制の心無くして人と暮らすなど至難の業。貴方様と共に暮らすと決めたならば、必ずや守らねばならぬ責務に過ぎません。どうか、謝らないでください」


 抄禅は、ゆっくりと言葉を紡ぐ禅応の声に、まだ自分が蕾だった五年前の頃を思い出します。物言わぬただの一輪の白蓮にすぎない自分を見つけて、まあと嬉しそうに笑ってくれた禅応は、当時の彼には、とても大きく見えたものでした。大きくて、なんでもできる、強い生き物。それなのに恐ろしくなく、毎日彼のために声をかけてくれ、自分の生まれた小さな池を手入れし、微笑みかけてくれた禅応の姿。それが今では、こんなにか弱く、今にも折れてしまいそうになっています。ああこれが理を外れることかと改めて噛み締めた抄禅は、ただ、掌に力一杯爪を食い込ませることしかできません。人、それも老尼の五年と、未だ青い妖の五年とは、あまりにもかけ離れていたものでした。

 

「いいえ、いいえ。わたくしは、あなたの可愛らしいその頬の、ふわりと上がるのを見ることが少なくなってから、ずっと、ずうっと悔いてきたのです。どうかまたその顔を見られたらと、それだけを願ってきました。それが、今漸く叶った。嗚呼、抄禅。可愛い可愛い我が子。尊い優しい子。あなたはわたくしの宝ですよ。大きくなっても変わらず、この先もずっと」

「おやめください、そのような。まるで今際の言葉のようです。……禅応様、団喜は、半分こしましょう、薬草が入っているのです、きっと御身の病に効きます、花なので、わかるのです」


 抄禅は、息が詰まりそうな思いでした。

 なんとしてでも話すことをやめさせ、生かさなくてはと思う心と、禅応が生きている時間は今日この時が最後なのだから、彼女の最後の一語一句を聞き取らなくてはと思う心の二つが、鬩ぎ合っていたのです。どちらが正しいのかもわからぬまま、葉が落ち切った紅葉の木の枝のような禅応の体を支えて、勝手に溢れ出てくる涙をどうにもできずにいました。しかしながら禅応はもう、そんな彼を叱ることはしませんでした。

 

「花だからでは、ないでしょう。わたくしはあなたが、わたくしのために、薬についても学んでくれたこと、ちゃんとわかっておりましたよ。今日、あなたが寝坊した理由も、どうせわたくしのことを思って、隠れて泣いていたからでしょう。母というものは、なんでもお見通しなのですから。──ねえ、抄禅。どうか、この禅応のお願い、聞いてはくれませんか」

「……はい、何でございましょうか。何でも仰ってください。抄禅が、何にだって応えてみせますとも」

 

 禅応が話すたびに、その言葉の間隙は長くなっていき、呼吸はどんどんと緩やかになっていきます。抄禅はそれに気づき、狼狽えるのをやめました。絶え間なく流れる涙を拭おうともせず、ただ、脱力していく禅応の身を支え、か細くなっていく声に耳を傾けますと、その言葉にさらに涙は溢れ、彼の真っ白な頬の上を滑り落ちていくばかりでした。

 

「わたくしのために、抄禅、あなたを甘やかしてあげるあなたを、どうか見せてはくれませんか」

 

 皺まみれの、骨ばった禅応の手が、そうっと抄禅の膝の上にある団喜を指します。彼が久々に見せた心からの喜びに染まった笑顔は、この唐果物が齎したものであると見抜いていたからです。抄禅は少しばかり躊躇いましたが、今にも眠ってしまいそうな、それなのにとても嬉しそうな顔をしている禅応を見て、全てを悟りました。膝上に置かれた藁の包、その上にあった団喜を、一気にぱくりと食べ、硬い生地を奥歯で砕いて、ふわりと香る清らかなその香りを味わい尽くし、噛み締めると、彼は禅応の微かに開いていた瞳をしっかりと見つめ、何の飾り気もなく、こう言ったのです。

 

「……とっても、美味しゅうございます。母様」

「……ありがとう、抄禅」

 

 たった一言そう残すと、禅応は、抄禅の朝露に濡れる白蓮のように美しい白皙の表情が、穏やかに喜色を帯びて頬を綻ばせるのを見届けるなり、ひどく幸せそうな安らかな笑みを浮かべて、極楽へと旅立ったのでした。


 その時ちょうど、見事なまでに澄んでいた、かの美しい浄土の池には、彼女が向かうであろう場所へと続く眩い天道が、天上楽土の色を受けて鮮やかに輝く雲を裂いて地上へと伸びてくるのが、しっかりと映っておりました。しかしながら、現世では諸行無常が理ですから、かつて禅応が愛して尊んでいたこの小さな浄土の池も、今はもう、跡形もなく消えているといわれております。

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百蓮華忌諱原典 旧川藤治郎 @Furukawa_10jiro

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