第8話 味の記憶
―――はぁ……。
先刻蕎麦を啜りこんだ口から、漏れる感嘆の吐息。
(お父さんの、味に、すごく近い……。蕎麦だったんだ!)
蘇る、物心つく前に父が家で食べさせてくれた、麺の味。
それがどのような麺料理だったのかも正直あやふやで、調理できる年になってから何度も自分で色々な麺を買っては茹でて食べて。どこか違う、足りないと思いつつ求め続けてきた味。
職人の手による生粉打ちの蕎麦を食べたことで、掘り起こされた味の記憶。こぶしは父との思い出にある麺が、蕎麦であったと確信する。
「お口に合いませんでしたか?」
「い、いえ!ちょっと思いだしたことがあっただけで!」
「そうでしたか」
それ以上松本は追及することなく、花巻きを楽しむことにしたらしい。
こぶしも目の前のざる蕎麦――父との大切な記憶を呼び起こしてくれた――に意識を戻し、感謝とともにいただくことにした。
先の松本のアドバイスに従い、こぶしは徳利から蕎麦猪口へ汁を半分ほど注ぎ、すこしだけ口に含んだ。
(しょっぱ!いつも買うスーパーの麺つゆよりも相当濃い?……でも、段々旨味が広がってきた…。これなら)
先ほど啜った蕎麦と、今味わった汁。こぶしは両者の味のバランスに見当を付けて、箸で摘んだ蕎麦の下端から三分の一程度を汁に漬け、啜りこんだ。
口内に広がる、香りと旨味。
蕎麦の爽やかな風味を殺さず、むしろ引き立てるかのような豊かな魚節と香ばしい醤油の匂い。汁は蕎麦が纏った化粧水の清冽さと、蕎麦自身の甘みに合わさることで“きつさ”が和らぎ、芳醇な旨味を舌の上に広げてくれる。
麺と汁それぞれを単独で味わったことで、併せて口に入れたときの調和をより強く感じられたようだ。
(……美味しい。蕎麦ってこんなに美味しいものだったんだ)
気が付けば、こぶしの前の笊は空になっていた。
それこそ麺の一筋すら残っていない。薬味を使う事に気を回す余裕もなく食べてしまったようで、ネギと山葵はそのまま残っていた。
「や、やだ私、夢中で…」
口福の余韻冷めやらぬ状況ではあったが、こぶしは上司と外で昼食中であったことを思い出し心身を正した。最も姿勢はそれほど崩れてもいなかったので、正したのは専ら意識の方だろう。
そんなこぶしを慈愛顔で見ていた松本は、仲居に蕎麦湯を頼んでこぶしに向き直る。
「ご満足いただけたようで何よりです。――それでは本題のお話をしたいのですが、宜しいでしょうか」
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