第7話 それはまるで儀式の所作

 仲居が、先ず松本の前に平膳に乗った丼を置いた。丸盆を逆さにしたようなフタが被さっているため、中身は見えない。

 続いてこぶしの前に、これも平膳に乗って――ざるに盛られ淡く緑がかった蕎麦、小さな徳利、大き目の猪口、薬味の小皿が提供される。


「麻績村さんは蕎麦店で食べられたことが無いとのことでしたので、今日は一番ポピュラなもり蕎麦を頼みました」

 つやつやとした肌に、角が立った蕎麦。日ごろ食べている蕎麦――乾麺やスーパーで売られている生麺とはまるで存在感、透明感が違うと、こぶしは感じる。


「本格の蕎麦は今でこそ高級な外食といったイメージがありますが、元々はファストフード。あまり鯱張しゃちほこばらずに好きに楽しめば良いのですよ」

 やや気後れしたことを察したか、松本はこぶしの緊張をほぐすように話す。

「ただ、お節介にアドバイスするならば。最初に入ったお店で食べるときは、蕎麦を一口だけ何も付けずに食べて、汁の味もそれだけを少し舐めて確かめてみてください。味がよく分かりますし、汁の濃さから蕎麦をどれくらい浸せば良いかの判断もできます」

「わ、分かりました!」

「それと、徳利の汁は蕎麦猪口そばちょこに一度に入れず、味を見ながら注ぎ足すと良いでしょう。こちらの蕎麦はきちんと水を切ってありますが、それでも少しずつ薄まるので。後はお好みで。蕎麦と職人の仕事を自由に楽しんでください。さ、いただきましょう」


 松本はそう言って、目の前の丼のフタを取った。

 たちまち、湯気とともに辺りに漂う磯の香り。白い湯気に透かして見える丼の中身は、ほぼ真っ黒。

「えっ、部長の真っ黒ですよ!」

 蕎麦屋に入ってから何度目の驚きだろう、あまりのビジュアルにこぶしはつい身を乗り出して声を上げてしまう。一瞬で店内の注目を集めるこぶし。

 恥ずかしさで小さくなった目の前の部下に、今度は自分の蕎麦を説明する上司。

「これは花巻き蕎麦といって、黒いのは海苔なのです。私は温かい蕎麦ではこれが一番好きでして。こちらではきちんとフタをしてくれるので、磯の香りが格別なのです」

 ざるそばなど、刻み海苔を振りかける蕎麦は知っていたこぶしだが、海苔を全面に揉み散らして具の主役にするなど、考えてもみなかった。

 こぶしにとって海苔とは、ご飯やお餅を巻いたり刻んで少し振りかけたり、チャーシューや味玉の脇でひっそりラーメンに添えられていたりと、あくまで脇役バイプレイヤーの認識だったのだ。


 松本が食事前の所作を済ませ、箸を丼の中に一寸ほど沈め蕎麦を手繰り上げる。真っ直ぐに上げられた箸先からは、細身で白く光る蕎麦が五筋ほど垂れ下がり、所々に黒い海苔を纏っていた。

 ズッ――

 殆ど姿勢を変えないで、松本は蕎麦を一息に啜りこむ。

「―――うん、美味しいですね」


 ほんの数度の咀嚼、そして嚥下。蕎麦を手繰るところから満足の言葉が出るまで、まったく乱れも滞りも無かった。

 まるで何かの儀式を見ているよう――所作に見とれたこぶしは、そんな感想を抱く。

「食べ方、凄く綺麗……」

「ハハハ、蕎麦を食べ慣れているだけですよ。門前の小僧…いや、好きこそものの上手なれ、でしょうかね。さ、麻績村さんも」

(私、口に出しちゃってた!うー、なんか今日情報量が多すぎて軽くバグってるよぉ)


「失礼しました!いただきます!」

 急ぎ手を合わせて蕎麦に箸を伸ばしたこぶしだが、先の松本のアドバイスを思い出し、先ず蕎麦を二、三本摘んで啜りこむ。

 冷水でよく締められた細身の蕎麦は、しっかり水が切ってあるもののしっとりと滑りよく、さしたる抵抗なく唇から口内へと収まる。啜った際に吸い込んだ空気が鼻へ抜ける瞬間、いつも食べる乾麺より格段に爽やかな蕎麦の風味が、こぶしの嗅覚細胞を刺激した。咀嚼を進めるうち、それはより強くなる。と同時に、舌には優しい甘みが広がってゆく。


 いつまでも味わっていたい、そう思う気持ちと、早く喉越しを楽しみたいという気持ちがせめぎ合い、やや喉越しへの興味が勝った瞬間、蕎麦はこぶしの喉を滑り落ちていった。他の麺類とは異なる、微細な凹凸のある麺肌。それは喉奥を通る際に敏感な粘膜を撫で、もどかしくも甘美な快感を与えてくる。


 もう、少し―――、あとちょっとで、どこかに届く―――。

 その寸前で蕎麦はこぶしの喉の奥へ、確かな余韻をのこし消えていった。

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