第6話 言葉も調度も違うってもう異世界じゃない?
店内は既に満席に近い状況であったが、幸い小上がりに空いた二人席を見つけた松本は仲居に目くばせで了解を得、席を確保した。
座卓を挟んで胡坐と正座で座る二人。かたや泰然と、背筋を伸ばして品書きを見る紳士。かたや興奮気味に辺りをキョロキョロと見まわし何かを見つけては感動している、少女の面影を残した若い女性。
あまり共通項のある二人ではないが、オフィス街も近いこの辺りでは上司が部下に昼飯を奢るというありふれた光景であったので、特段周囲の耳目を集めることも無いようだった。
店内の
目の前には
四人掛けにしては小ぶりなテーブル席では、直方体の椅子が目に留まる。角材と藤で組まれ背もたれが無く、座面には和布のクッションが張り付けてあり、いかにも蕎麦屋という風情だ。
調理場は店の奥、暖簾に遮られて見えない。が、微かに何かを揚げる音と、時たま調理が終わった旨を仲居に告げる職人の声が聞こえてくる。
店の中央付近には、大きな囲炉裏を囲むようにしてカウンター席が設けてある。囲炉裏に火は入っていないが、敷き詰められた灰は耀くように白く、
それぞれの調度の名前や由来、意匠などこぶしはまるで知らないが、古いものを大事に丁寧に使い続けたことで生まれる深みのようなものは、感じ取ることができた。
(店内も凄い…。どれもがとても古い――たぶん私の歳よりも。それなのに、汚いとかさびれたとか全然感じない。骨董品じゃない、みんな毎日使われてる、現役の道具なんだ……。こんなお店が会社のすぐ近くにあったなんて!)
また呆けているこぶしに、松本は遠慮がちに声をかけた。
「蕎麦が好き、というわけでは無かったのでしょうか。随分落ち着かない様子ですが」
心配げな松本の言葉を、こぶしは慌てて否定する。
「いえっ!蕎麦含め麺類は大好きで、家ではよく茹でて食べています。……その、ちゃんとしたお蕎麦屋さんに入るのが、実は初めてで珍しくて!――ずっと、入ってみたかったんですが……なんだかハードルが高くて」
松本はその答えに得心したらしい。
「なるほど。……それでは、今日は注文を任せていただけますか」
「はい!、お願いします」
松本の申し出に、こぶしは渡りに船と頷く。
松本は頷き返し、仲居を呼ぶ。すぐにやってきた中年女性の仲居は松本から聞き終えると、厨房へ向け特徴的な調子で朗々と注文を通した。
「もりつき二杯の巻き、巻きはきんで願いまーす」
(――!何て!?)
聞きなれぬ注文の通し方にショックをうけるこぶしに、松本は話しかける。
「では、蕎麦が来るまですこし説明しましょう。こちらのお店は江戸期から続く老舗の流れを組みますが、先代が藪系、今代が更科系のお店で修業されたので、どちらも楽しめるのが特徴です」
(やぶ、…さらしな?さらしなは地名の更級のことかな?やぶってのがよく分かんないけど、やぶ医者とか言うしあんまり良いお店じゃないんじゃ…)
こぶしの想像を察したかどうか、松本は説明を続けた。
「藪や更科は、蕎麦の店名や味の系統の事です。藪蕎麦の元祖は江戸の雑司ヶ谷鬼子母神…今の東京池袋駅から少し南辺りの、藪の生い茂る場所に店を構えていたそうです。正式な店名は違うのですが、藪の内の蕎麦屋、略して藪蕎麦と言うのが通り名だったようですね。うまいと評判になり、それにあやかろうと『藪』を店名にする店が増えた。その中でも名店が残り、今に技を伝えています」
(……うわー!恥ずかしい…、ダメな意味のやぶじゃなかったぁあああ)
己の誤りに気付き身もだえするこぶしには触れず、松本は説明を続ける。
「藪の蕎麦は挽きぐるみ――実の大部分を使った香り高い細切り麺に、味の濃い汁が特徴ですね。新蕎麦の頃になると麺が甘皮由来の一層鮮やかな緑になって香りも立ち、季節を感じます。恐らく、一番目にする機会が多い蕎麦ではないでしょうか」
今までに漫画やドラマで見た蕎麦を思い起こしながら、こぶしは松本の話に耳を傾ける。
「更科の由来はここ信州の地名ですね。昔から信州は蕎麦の一大産地でしたので、江戸の蕎麦屋も多く信州産の蕎麦を使っていました。店名に更科や信濃、戸隠といった地名を入れることが一つの品質保証、今でいうブランド産地のアピールだったのかもしれません。更科蕎麦の特徴は、……またのお楽しみにしましょうか」
蕎麦が到着したことを察し、松本は説明を切り上げた。
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