第5話 緊張の昼休み
昼休みになり、こぶしは松本のデスクへ向かった。
部長席は部内全体を見渡せる位置にあり、パーテーションで仕切られてもいないため、開放的な印象を受ける。
こぶしのデスクからも当然見える位置にあり、たまに松本と目が合うこともあった。それは松本がこぶしの方を見ていたということではなく、習慣的に部内各員の仕事ぶりを見守っているためである。
松本と目が合うたびにこりと微笑みかけられるのを、こぶしは密かな楽しみとしていた。小学生の頃、優しい先生に目を掛けてもらったときの事を思い出し、胸が温かくなるのだ。
「松本部長、お待たせしました!」
昼休み、とだけで明確に何時何分と決めてあったわけでは無いのだが、こぶしは何となくそう言ったほうが失礼にならないだろう、という挨拶を選んだ。
何より、どのような話かが分からないのだ。悪い方の話であれば、少しでも印象は良くしておきたいというのが人情である。
「やあ、麻績村さん。大丈夫、遅くありませんよ。…もしお弁当が無いようでしたら、話はお昼を食べながらにしましょうか」
「ふぇっ、…は、はい!大丈夫です!」
時間を確認した松本から食事に誘われたこぶしは、緊張と意外さからどちらともとれる返事をしてしまった。てっきり、重要な話をすぐにされると思っていたのだ。
「何か、ご希望はありますか。お好きなものをご馳走しましょう」
「は、はい何でも!……あ。で、出来ますればお蕎麦屋さんをお願いしましゅ!」
(―――ぁあああ!変な言葉になってしかも嚙んじゃったあああああ!!)
緊張のなか、上司への返事と思いついたリクエストを伝える、というダブルタスクが正常に処理しきれず、エセ日本人のような返事をしてしまった。
「蕎麦ですか、分かりました。では私がよく通っているお店に参りましょう」
こぶしの緊張ぶりと対照的に、松本はいつもの落ち着いていて柔和な態度を崩さず、先立って歩き始める。
ビルから出て、二人は大通りから一本外れた小通りに入った。
松本は時折後ろを振り返り、こぶしが付いてきていることを確かめつつ、よどみなく目当ての店へと歩いてゆく。
こぶしは後を追いながら、松本の歩き方に感心していた。
(松本部長って凄く姿勢が良くて、なんていうか綺麗な歩き方するんだよね…。背筋が伸びているだけじゃなくて、上下にも左右にも全然ブレない。私は足元見てないとたまに転ぶからなあ…。あー、チノちゃんも歩き方カッコいいし、大人なヒトってそういうところも違うのかなぁ)
歩き方の差にこぶしが一人落ち込んでいるうちに、目当ての店に着いたらしい。
歩みを止めた松本が振り返り、身振りで店を指し示す。
「ふわぁ…」
顔を上げて店構えを見たこぶしは、思わず呆けた声を漏らした。
長く使われていることを感じさせる“抜けた”藍染め地に、左から『麦蕎生』と白く染め抜いた――こぶしには読めなかったが――暖簾。風にたなびくその下端はよれて、茶渋らしき染みがそこかしこに付いている。
軒下には植え込みと石灯籠が、小さなスペースに奥行きと季節感を醸し出す。
白の塗り壁に、枯れた木格子の茶褐色が織りなす景色は、こぶしに時代劇で見た町並みを想起させた。
(こ、これが憧れの日本蕎麦のお店…、ドラマや漫画で見た通り!)
「さあ、入りましょう」
感極まった様子の部下に声をかけ、松本は暖簾をくぐる。正気に戻ったこぶしも、慌てて後に続いた。
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