第9話 緊張と緩和

(本題…?なんだっけ。…あ!そうだ、部長から聞きたいことがあるって言われてたんだった!!)


「は、はい。…何デショウカ…」

 後半は消え入りそうな声でこぶしは応える。

 何か叱責を受けたり、詰問されたりすることはあっただろうか…?ネガティブな思考が浮かんでは消え、松本が語り始めるまでのわずかな時間が、先ほどの蕎麦を夢中で食べていつの間にか過ぎた時間とは対照的に、とても長く感じられた。


「この写真を見ていただけますか」

 松本は会社支給のものとは異なる、恐らく私物のスマートフォンをこぶしに差し出した。

 恐る恐るこぶしが覗き込むと、そこに写っていたのは全く予想外のもので。

「…子猫?」

 それは白い毛がタンポポの綿毛を思わせる、まだ生まれて間もないような子猫だった。ダンボールの箱の中で、タオルを寝床に横になっている。


 身体に比べ大きな頭、目の横に付いている丸い耳、膨らんだお腹、開いていない眼。大人の猫にはないはかない愛らしさが、こぶしの胸をぐっと掴んだ。


「うわぁぁああ可愛いぃぃいい!部長のところの子なんですか!?」

 静かな店内に響き渡る嬌声に、他の客が眉をひそめて騒音の元の若い娘を見やる。

 慌ててこぶしは口を噤み、立ち上がって全ての席に対しゆうして謝意を示した。客らはその素直な謝罪にむしろ好感を持ったようで、こぶしに微笑み返しそれぞれの食事や会話に戻ってゆく。


 店内が落ち着きを取り戻したところで、松本は被写体に関して話し出した。

「この猫は、私の家の近くに捨てられていたのを昨夜発見したものです。周囲には他にきょうだいや親らしき猫も居ませんでした」

 ――捨て猫!

 猫を捨てる人にも、様々な理由があることはこぶしも知っている。

 多頭飼いして世話をしきれなくなった。飼い猫の避妊手術をせず子猫が出来てしまった。引っ越し先が賃貸で飼えなくなった。生き物を飼うことが、こんなに大変だとは思わなかった……。

 しかし、どれもが“人の都合”でしかない。


「捨てたと思しき人も見当たりませんでしたが、ダンボールやタオルが濡れておらず、子猫も衰弱していなかったので、捨てられた直後に私が見つけたのだと思います」

「こんな可愛い子猫を捨てるなんて…、酷いです」

 我がことのように憤慨するこぶしを見て、松本は納得したように頷く。

「ペットの数は、既に犬を超えて猫が一番多いそうです。大事に飼われている猫が多い一方で、この子猫のように捨てられてしまうケースもまだまだあるようですね」

「それで、今猫ちゃんは?」

「一番近くの夜間対応していただける動物病院を急ぎ探して、検査入院をお願いしました。いやあ、猫の病気やウィルスの検査は随分と種類が増えたのですね」

 自らも猫を保護した――現在進行形でしているこぶしは、松本の行為に共感する。


「それで、話というのはですね――」

「あ、……はい」

(猫ちゃんの写真や捨てられてた件で頭から飛んでた!…何だろ、話)

 大好きな猫の話のテンションから急転直下、こぶしは不安に包まれる。恐る恐る松本の顔色を伺うこぶしが耳にしたのは、予想外の言葉だった。


「私に、猫の飼い方を先達として教えてもらえないでしょうか」

 所属する部の長に『話がある』と昼食に誘われ、念願の日本蕎麦のお店に初めて入り、職人の手による生粉打ちの蕎麦を食べて父とのことを思い出し……と、こぶしの精神は緊張と興奮の連続で既に相当に疲弊しており、鈍感になっていた。


 しかし、この松本の発言は、そんな状態のこぶしにさえ――この日最大の驚きを与えたのだった。

 

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