第32話 欲望前線 ESS - Enemy Side Scene -
ソドム上空、無限に広がる蒼穹に、巨大な円筒が浮いている。
円筒の名は《マジックミラー浮遊城》。
《マジックミラー浮遊城》の城内から外を見る事はできるが、外から城を知覚する事は、決してできない。
キャリアーは故人だが、
遠近感が狂うほど大きなバームクーヘン状の内部構造は、下層、中層、上層の三層に分かれている。
各階層は3つの大エレベーターとパスポートというカードキーで行き来できた。
下層は城の警備や清掃といった雑用を務める労働者たちのスペースになっている。
中層は全域が花街になっており、様々な店舗が立ち並ぶ。
その花街の通称が、【デザイア・フロント】だった。
そこで連日繰り広げられている宴は、悪逆非道、残酷無比、腐敗堕落、
世界のどこを探しても同じような場所は存在せず、世界のどこを探しても同じ事ができる場所は存在しない。
あらゆる罪を煮詰めた闇鍋。法や倫理が看過しえないそれを、ヘル・シミュレータは許容する。三千世界で唯一無二の桃源郷は地獄にあった。
もっとも、デザイア・フロントを利用するためには少なくない対価が求められる。
まず《マジックミラー浮遊城》の存在を知れる立場と能力は必須。
その上でマリー・ミイがクソ中のクソと評すアサイラムの幹部から紹介状を入手しなければならない。
そして500年真面目に
つまりほとんどのヒトには到達不可能、という事だ。
それだけのハードルを越えてでも、《マジックミラー浮遊城》のデザイア・フロントを利用したいと考える客は後を絶たない。
デザイア・フロントの客になるという事は、ソドムで成功したという証だ。
それは同時に、堕落しきったという証でもある。
欲望の最前線では今日も、酒池肉林のお祭り騒ぎが催されている。
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《マジックミラー浮遊城》上層は、アサイラムの要人だけが入れる区画だ。
そこにある大会議場には、巨大なシャンデリアが吊るされており、高価な調度品の数々を照らし出していた。
豪華絢爛な室内には冷気が充満している。
もちろん空調が故障しているわけではない。
実際の室温の話ではなく、大会議場に集まった者たちの心情が氷点下になっていたのだ。
最悪の空気を作っているのは、アサイラムでもっとも恐れられ、敬われる4人。
禿頭の側面にスズメバチのタトゥーを入れたスーツ姿の眼鏡の男性。
ブクブクと膨れ上がった裸体を惜しげもなく晒す下着姿の熟女。
ゴシック&ロリータファッションに身を包んだ中性的な容姿の子供。
枯れ柳のような体に異常な眼力を備えた和装の老人。
4人の両脇には、秘書、副官、
彼らがアサイラム幹部会の全メンバーだ。
四半期に一度開かれる定期会合で顔を合わせ、毎月のシノギの金額、各部門の仕事ぶり、娼館周辺の治安、他マフィアの動向等が話し合われていく中、最近組織にたかってきたウジ虫の話題に差し掛かると、冷え冷えとした空気になった。
「目も当てられねー被害総額だ……これを一人でよくもまー……ウジ虫と思ったら毒虫だったってか?」
老人がおどけて言う。
「ケチが付いちまったなービル?」
その口調とは裏腹に、老人の眼光は刃のように鋭く細められている。
「なんの虫でも構わない。問題は
蜂の入れ墨の男――ビリー・ライルがつまらなそうに鼻を鳴らす。
アサイラムの頭脳、情報部門のまとめ役だ。
その性格は冷酷。命を数字に置き換えて計算できる鬼畜で、人命軽視の専門家などと陰口を叩かれているが、そう口にした者の姿は翌日から見なくなるとも言われている。
生前は複数の国で活動する国際投資詐欺グループのリーダーだった。
「この新参者は、愚かにも我々の経済活動を脅かした。おい、スライド」
横に控えていた副官2人が機材を操作する。
しかしトラブルが発生したのか、映写機には何も映らない。
2人は機材を何度も叩いたが、うんともすんとも言わなかった。
「無学が……以前あれほど会議前に機材のチェックをしておけと言ったのに、
「ひっ、も、申し訳ありません!」
副官の女性が額を地面に打ち付けるような勢いで頭を下げた。
「他人の浅薄さで貴重な時間が棄損される以上に、苛立たしい事はない……」
「お、おゆるしを――どうか!」
もう一人の男性も腰を曲げて必死に謝罪する。
「安心しろ。私は優しい男だ」
ライルは笑った。
空気が弛緩したように感じた副官たちの顔に喜色が浮かぶ。
「一度、注意して許した。2度目はない」
「そ、そんな――」
「この問答すら無駄だ。省かれろ」
ライルが両手の親指と人差し指でL字を作り、その左右の親指と人差し指をくっつける。俗に言う指フレームというハンドサインだ。
そのフレームに収まった副官2人が、急に倒れた。
喉を掻きむしり、苦しみ悶えたあと気を失って、動かなくなった。
「おっかねーな」
ライルの《エタニティ・ゼロ》は、指と指で囲んだ範囲に見える領域の大気組成を構成するあらゆる物質の移動をコントロールする。
ヘル・シミュレータも物理法則は地上と変わらないように設定されている。
大気は窒素8割、酸素2割、ほか多数の微量成分と水蒸気というデータで構成されており、そのパラメータを人体が取り込み、呼吸という生理機能がシミュレーションされる。
そういった現実に準拠した物理法則は、ヒトが仮想世界で生きるために必要不可欠なものだった。
肉体を失い、仮想世界に放り込まれても、ヒトは無意識のうちに行う生理機能を即座に忘れるわけではないのだ。
たとえば、ヒトの呼吸は脳幹部にある呼吸中枢によって制御され、無意識でも眠っている間でも続く。
そういった生理機能を無視した仮想世界にデータ化したヒトを転送すると、肉体を持っていた頃の生命活動と、データの生命活動が乖離し、人間として破綻してしまう。つまり、通常の死刑と変わらない結果になるのだ。
機械的な補助があれば話は別で、それがあればヒトはあらゆる極限環境下でデータとして生存できる。娯楽としてある仮想現実作品では、宇宙空間や深海を生身で探検するゲーム等もあった。
ヘル・シミュレータでも部分的に採用されており、全盛期の肉体の再現やカルマやステータスといった現実にはない法則は、機械的な補助によって違和感なく受け入れられている。
それが部分的なところに留まっているのは、彼等が罪人だからだ。
仮想現実で快適なセカンドライフを体験されたらたまったものではない。
そのためヘル・シミュレータはさほど現実と変わらない環境で、現実以上の苦痛をもたらすように設定されている。
ヘル・シミュレータで人体から酸素のパラメータをとりのぞけばどうなるかは、ライルの副官が身をもって証明してくれた。
ライト級に分類され、第一線で戦うこともできる政戦両略の才人は、事切れた副官には一瞥もくれず、自分で映写機を操作して、すぐに不具合を直してみせる。
「地獄に墜ちる者の程度は知れているが、人材不足は深刻だな」
「おめーがちーせーことですぐ殺すからだろーが……程度が知れるぜ」
ムラタと呼ばれた老人の小さなぼやきをライルは黙殺し、映写機のボタンを何回か押す。
すると白い壁に映像が映し出された。
そこには、ダークブルーのセットアップを着た男と縄に縛られた男が、路地裏で死体をダストボックスに詰める姿が映っていた。
「ミイの《アラクノフォビア》で見た光景を、ソギンの《ネ・モリソゲ・ヨンピル》でアウトプットしたものだ。一週間前、アサイラム傘下の奴隷商人ザンパノがこの2人組に殺害され、商品の純潔の悪魔が奪われた。主犯は、カルマランキングで名前が出なかった奴と同一人物だ。年齢は十代後半から二十代前半。アンノウンと名乗っている」
また画像が切り替わり、誰かを背負ってアダルトモーテルに入る二人の姿が写真に映し出される。
「もちろんすぐに殺し屋部隊を派遣したが……」
「返り討ちにあったってわけだな」
ライルの淡々とした説明にムラタが茶々を入れる。
「殺し屋部隊No.2で歯が立たなかった。半端な刺客ではいたずらに被害が増えるだけというミイの判断で、フリーウェイ・キラーを起用したところ、想定外の事態が起きた。我々はチーターを一人、失ったのだ」
「想定外、ね」
そう呟く眼光鋭い老人――キクチヨ・ムラタは、生前は広域暴力団の重鎮だった。
ムラタの全盛期は
老いとはたいてい喪失を意味するが、逆に年齢を重ねる事で手に入るものもある。
ムラタの場合、それが知識と経験に裏打ちされたカリスマ性だった。その人心掌握能力は、本人の実力以上の部下が集まるほどで、ムラタ自身の戦闘能力は高くないが、彼の部下には一癖も二癖もあるキャリアーがそろっている。
今もずっと腰の後ろで手を組んで微動だにしない副官2人は、ムラタの懐刀だった。
「アンノウンの主な武装は短刀と爆発物。特に爆発物は大量に携行しているようだ。2人のどちらかが
「……それについて、彼女から報告があります」
ライルの話に水を差したのは、ずっと黙っていたソン・ソギンという下着姿の太った女性幹部だ。
その下品な見た目に反し、殺し屋部隊を率いる武闘派で、カルマと狡知に長けた才媛と評されている。
《ネ・モリソゲ・ヨンピル》というソギンのカルマは、肌で触れた他人の記憶を写真にしたり、肌と肌を合わせた状態で他人と写真を撮る事で、その人間の記憶を好きに改編できた。
念写と洗脳がセットになった
ヒト関連の効果を発揮する
地獄に堕ちてすぐに彼女の信者に捕まったら、虚無堕ちよりも悲惨な末路を辿る事になる。
何もわからない内にソギンを崇拝する信者たちに仲間入りするのだ。
アサイラムの最高戦力 《アラクノフォビア》のように――。
ソギンの後ろに控えるマリー・ミイは、ソギンの毒牙にかかったもっとも優秀な
戦闘力皆無のソギンが武闘派を名乗れるのは、ミイをはじめとした優秀な手駒を持っているからだった。
「ね、ミイ?」
そうソギンから促されて、ミイが一歩前に出て語り出した。
「はい、ソギン……様。私はアンノウンと戦いました」
「聞いている、シン・セントラルの被害は甚大だ。アンノウンが我々にもたらした損失は計り知れない」
そう言うライルが、苛立たし気に禿頭を撫でた。
「まーミイの嬢ちゃんが負けるとは思ってなかったぜ? この定期会合は、その戦闘の経緯と結果報告も兼ねている……で、結局アンノウンの野郎を仕留めたのか?」
それが、この場の全員が一番欲しかった情報だ。
それなのに、会議の最初のところでソギンが議事録通りに話を進める事を強硬に言い張って譲らなかった。
ソギンのわがままな態度も、場の空気が悪くなった一因だ。
「はい、経緯を説明します。まず――」
ミイは、アンノウンが自分の居場所を突き止め、やむ無く戦闘になった事を簡潔にまとめて話した。
戦闘の経過は、おおむねミイの優勢で進み、反撃を受けて片腕を負傷したが、ギリギリで勝利したとの事だ。
「――被害は大きくなりましたが、私は奴を討ち取りました」
最後の台詞を聞いて、会議に参加していた数人の口から、肩の荷を下ろすようなため息が漏れた。
戦ったチーター本人が生きているのだから、最悪でも「追い詰めたが逃げられた」くらいの報告になるだろうと、ある程度予想はしていた。
ただその相手は、日間カルマランキングに毎日名前が載り、フリーウェイ・キラーを倒した上、いまだにカルマの全貌が見えてこない
名前通り意味不明な存在と、成り行きから敵対する事になったアサイラムの面々は、一抹の不安を覚えていた。
「もしかしたらアンノウンは、三大マフィアの組織力に匹敵する力を持っているのかもしれない」と。
ここでようやく、ミイから吉報が聞けた事で、会場の空気は弛緩した。
「以上です」とミイが言うと、その後をソギンが引き継いだ。
「という事よ。フリーウェイ・キラーの件でミイは失策を犯したけれど、それを彼女は、自身の働きで取り返したわ。これ以上ミイを責めるのはやめてあげてね?」
アンノウン関連の議題を後回しにしたのはこれが狙いか……とムラタは心の中で毒づいた。
空気の悪い議場をミイの劇的な勝利報告で昂揚させ、ミイと、ミイの上司であるソギンの失策を帳消しにするかのような印象を与えるための演出だ。
しかもソギンは暗に「ミイがアサイラムにもたらした不利益は自分のせいではなく、ミイ個人の失策であり、ソギン勢力に非はない」と言っていた。
対アンノウンにフリーウェイ・キラーを起用する事を、直属の上司であるソギンが知らなかったわけがない。事後承諾にしろ、最終的に認めたのはソギンだろう。当たり前の話だが、部下の失敗には大なり小なり、上司の責任もある。
それなのに、知らぬ存ぜぬで責任をなすりつけながら、部下を
「……まあ、いいだろう。問題は片付いたが、フリーウェイ・キラー亡き後、車両製造部門の負担が増えるかもしれない。今後は、車両販売の収益にも影響が出るだろう。乗り手ごとリモートコントロールできる好みの車種を丸々一台作り出す力はやはり惜しかったな……」
ライルが議題をアサイラムのシノギの話に戻す。
ウジ虫の駆除が完了した事で、幹部会は本来の調子を取り戻しつつあった。
「車両製造部門の失速は、類似のカルマでリカバリー可能だと考えるわ。それにもともとフリーウェイ・キラーの生産効率はそれほど高くなかったでしょう?」
ソギンの言葉は常に理路整然としている。一芸に秀でるだけでは三大マフィアの幹部にはなれない。カルマと狡知に長けた才媛という彼女への評価は過大ではなかった。
ちなみに、彼女の格好はカルマの罰ではなく、趣味と実益を兼ねたものだ。
「罰が重い上、組織の要望を素直に聞くようなキャリアーでもなかったからな」
そう言うライルはやれやれと首を横に振っていた。
「どんどん車になってっちまうし、最近のあいつは誰彼構わず犯して殺すだけのクソ野郎になり下がっちまった。睡眠も食事もとれなくなった奴に最後に残った欲……ヒトでいるために性欲にしがみついていたんだろーが……哀れだったよ」
ムラタは、マフィアの幹部らしからぬ表情を垣間見せる。
「つまり素行も含め、フリーウェイ・キラーの死亡はいいタイミングだったということよ」
計算通りとでも言うように、ソギンはムラタの言葉に便乗した。
(厚顔め、これで頭も回るから
ムラタはそう思いながら、言葉にはしなかった。
「ライルの仕事に間違いがなければ、ウチは他よりも多くチーターを所有していたはずよね? わた……ミイの失策は帳消しにできるはずよ」
ムラタは顔をしかめていた。
一方、ライルはソギンの言葉に頷いた。
「ああ、こちらの戦力が明るみに出れば、
「親父殿!」
順調な会話の流れに割って入ったのは、ムラタの副官の一人だ。
副官の視線は会議室のテーブル中央に注がれていた。
そこには、クリスマスプレゼントのようにラッピングされた大きな白い箱が置かれている。
「――――いつ、誰が、置いた?」
ライルが声を震わせる。
会議が始まった時には、テーブルの上には何もなかった。
そして今の今まで、箱の存在に誰も気付かなかった。
箱が突然そこに出現したようにしか見えなかった。
「君たちの話し合いは、長い上に退屈だね」
その声に惹かれて、全員の視線がテーブルの中央から大会議場の入り口に移る。
扉の前には、美しい女と冴えない男が立っていた。
美しい女は、褐色の肌を際どい給仕服で包んだ女悪魔だ。
冴えない男は、先ほど映写機に移っていた人物と瓜二つだった。
「てめーは‼」「アンノウン⁈」
ライルとムラタが声を荒げる。
「どういうことなのミイ⁉」
ソギンは目を白黒させながら自分の側近に詰め寄った。
「まあまあ、種明かしは生き残ったヒトにしてあげるよ。まずは、この冷え切った場を温めようか?」
アンノウンがそう言い、女悪魔が掌に魔法陣を輝かせると、2人の姿が消える。
「魔法!」
「まず――!」
直後、白い箱が弾けて、大会議場は爆炎に染まった。
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