第8話 この世の悩みの大半は君のせい
一悶着あったあと、宿にたどり着いた頃には、すっかり夜も更けていた。
夜空には一つの月と、無数の星々が顔を出している。
地獄の一日は24時間で、毎日太陽と月が昇り降りする。
普通だ……。
号泣の聞こえる川。
煮えたぎる泉と世界樹の3つ目の根を
現実ではお目にかかれない光景や、とんでもない化物の姿を期待していた僕は、肩透かしをくらう。
「アァァァっ、ァァイっ、ァッ! イイっ! いいわぁッ! もっと! もっとよっ!」
隣の部屋からとどろく嬌声が、現実感に拍車をかける。
ここは年季の入ったアダルトモーテルの2階だ。
しかも、壁が薄すぎて男女の営みが筒抜けだった。
ジーン君に抗議の視線を送ると、彼は悪びれずに肩をすくめてみせる。
「本当はもう少しマシなとこに行くつもりだったぜ? てめぇが一人増やしたから予算オーバーになったんだろ?」
彼の座った丸椅子の隣にあるベッドでは、ボロボロの女悪魔が寝ていた。
「放置したら足跡をたどられる可能性があるって、ジーン君が言ったんだろ?」
「だから、あのクソ野郎たちと同じように処理しようとも言ったぜ、俺は?」
女悪魔を指さしながら不満を漏らす。
「マフィアの悪魔奴隷だ。高価で希少だが、どう考えても面倒事を抱えるリスクの方が高くつく。割に合わねぇよ」
「わかっているけど、NPCのことはジーン君も詳しく知らないんでしょ?」
「絶滅危惧種だからな。滅多にお目にかかれねぇし、やつらは口が堅い。情報は不確かな伝聞しかねぇ」
「それをご本人に確認したい」
「好奇心は猫をも殺すぜ? てか、さっさと殺されろ」
「もう一度死んでるんだから誤差の範囲さ。それより、受付の人にベッドを壊さないように念を押されたの、あれって、ボロボロの女の子を連れた男2人、いったいどんなプレイをするつもりだって思われたんだよね……あぁ……これじゃあ殺人鬼じゃなくて変態だ……」
「それこそ誤差の範囲だろうが」
「違うよ、僕は殺人鬼だけど変態じゃあない。趣味と特技と仕事がたまたま人殺しだっただけの普通のヒトだよ」
「めっちゃ早口……キモ」
「ジャパニーズJKみたいな引き方しないでよ~」
「あ、おい、目を覚ましたみたいだぞ」
「……君、やっぱり図太いよね」
まぶたを開けた女性が、ボンヤリとこちらを見てくる。
鞭打たれ、縛られていた痛々しい肌に汗が伝っていた。
「あなたたち……わたしは……」
「へー、悪魔って英語が通じるんだ?」
汗を優しく布で拭いながら、何の気無しに質問する。
「全員しゃべっている言葉はバラバラだ。俺はフランス語を喋ってる。てめぇ英語圏か?」
「
「おいおい、高学歴のサイコパスなんてクソの金メダルだぜ」
「サイコパスは否定しないけど、学歴と語学力に相関関係はないよ。学校に行かずに三カ国語を操れるスラム街の高級娼婦もいるし、ウォール街で働く単一言語話者なんてざらだ」
「そうかよ。まあどうでもいいがな」
「で、今までたまたま使用言語が一緒だから通じているものとばかり思っていたんだけど、なんで言葉がわかるの?」
「ヘル・シミュレータの自動翻訳機能だ。聞き手の耳が、勝手に言語を翻訳すんだよ」
「なんてこった……
「てめぇみたいなのしかいねぇのに? 笑わせんな」
なるほど、この世の悩みの大半は人間関係に起因すると言われている。
その人間が最低な地獄は、悩みの尽きない場所だろう。
洒脱な殺人鬼なら問題ないが、繊細で神経質なヒトが地獄に落ちたら、一日で心を病むかもしれない。
そんな意味のない仮定を考えたのは一瞬だった。
目覚めた怪我人をこれ以上放置しておくわけにもいかない。
「やあ、僕、僕は……うーん……どう名乗ったものか……」
初めて経験するタイプのもどかしさだ。
自分の名前が思い出せない不便さは、思ったよりも大きかった。
「典型的な記憶喪失だな。死んだショックでたまにそうなる奴はいるが……てめぇはそんな玉かよ?」
「どうだろう……本当の僕は、繊細で傷つきやすい人間なのかもしれないね」
「……もしかして、今の笑うとこか?」
拘束されているわりに態度がでかい男だ。本当にいい性格をしてる。
「僕自身不可解だよ。それよりジーン君、傷薬と布と水を貰ってきて」
「もう金がねぇ。あの奴隷商たち、どうせ殺すなら金ふんだくってから殺せば良かったな」
「過ぎたことを言ってもしょうがない。これで何とかしてよ」
僕は、ジーン君を縛る縄をナイフで切り、左手の薬指にはめていた指輪を差し出した。
「おいおい……いいのか?」
ダイヤをあしらったエンゲージリングだ。
地獄でダイヤにどれほどの価値があるかはわからないが、傷薬と包帯代くらいにはなるだろう。
「マフィアの関係者を殺した僕らは一蓮托生でしょ?」
「ちげぇよ、こっちの世界には全盛期に愛用していた品しか持ちこめねぇんだぞ? これが、てめぇの記憶につながる唯一の手がかりになるかもしれねぇんだぜ?」
「僕の記憶なんか思い出す価値ないさ。きっとゴミみたいな思い出ばかりだろうからね」
そう言うと、ジーン君は何度か目をパチパチさせた。
目から鱗が落ちたようだ。
「……違いねぇ」
彼は指輪をコインのように指ではじいてから掌でキャッチしたあと、ポケットにしまった。
僕は一応くぎを刺しておこうと思い、アダルトモーテルの扉に手をかけたジーン君の背に声をかけた。
「持ち逃げしてもいいけど地の底まで追い回して殺すから、覚悟してね」
「ここがその底だ。逃げ場なんかどこにもねぇよ」
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