第7話 神がかり



 空を薄く覆っていたうろこ雲は、昼を過ぎた頃にはどこかへ消え失せていた。

 尾根にはろくな遮蔽物もなく、頭上から強い日差しが容赦なく降り注ぐ。

 唇が無性に渇き、頬はじっとりと汗ばんでいた。


「なぁ、俺たちって今どこら辺を歩いてるんだ?」


 ニトは水筒を傾けて喉の渇きを潤すついでに訊いてみた。


「えっと、多分コーンウィル山脈の中央部だと思います。もうそろそろ尾根を抜けて鞍部に出るので、そこから麓に下りられるようになるはずです」

「じゃあつまり、やっとまともな道とご対面できるって訳か?」

「そうですね」

「やっとか……ここまで長かったなぁ」

「ふふっ、お疲れ様でした。よく頑張りましたね、ニトくん」

「言っとくけどなぁ!? 近道になるとはいえ、こんな悪路は二度と御免だからな! こんな強引な山越えなんて正気の沙汰じゃねえからよ」

「はい、善処します♪」

「ッ、このっ……はぁ……」


 吐き捨てるような口調のニトとは反対に、のんびりと喋るアユリア。

 そんな態度に一瞬苛立ちを覚えたが、ここで声を荒げても彼女はきっとのらりくらりと躱すだけだ。

 最初から俺はアユリアの掌の上で踊らされているだけ——そう思うと、腹を立てる気力すらも湧かなかった。


 なだらかな稜線を下っていくと、不意に切り立った断崖の真上に出た。

 尾根はそこで途切れており、崖の端からぐるりと回り込むことで麓に続く丘稜へ出ることができそうだ。


 谷間から吹き上げた清涼な春風が頬を掠め、蒼穹の彼方へ駆け抜けていく。

 全身の汗が一気に渇き、熱った身体が冷めていく感覚に思わず目を細めた。


「おぉ、いい風だな……」

「ですね。折角ですし、少しだけ休憩していきますか?」

「そうだな。そうしよう」


 ニトは岩場に腰を下ろすと、勤続疲労で凝り固まった身体をほぐすように大きく伸びをした。

 アユリアもパイルハンマーを足元に下ろし、ニトの隣に腰掛ける。爽やかな柑橘の匂いがふわりと香った。


 水分を摂り、ある程度体力が回復してくると、狭窄していた視界が段々と広がって様々なものが見えてきた。


 鋭い断崖の向こうには、天を突くような高い山地が見渡す限り連なっていた。

 青々と輝く山稜の群れは、晴れ渡る空を背にして山頂に残雪を冠している。

 遠く広がる雄大な光景を前に、ニトは何度目かの溜め息を吐いた。


「さっきまで歩くのに必死だったから気付かなかったけど……こんなに景色がよかったんだな」

「その昔、コーンウィル山脈は避暑地や観光地として人気で、夏になると多くの観光客で賑わっていたそうですよ」

「なるほどな……昔の人間もこの景色を求めてたって訳か」


 眼前に広がる絶景を噛み締めるように堪能していると、遥か下の谷間——ちょうど稜線の途絶える場所にそこそこ大きな村が見えた。

 谷に流れる小川の側で肩を寄せ合うように百近い数の住居が建っている。

 山間から吹き抜ける風に耐えるためか、ほとんどの家が石造りだ。

 しかし遠目から見ても村の中に人の気配や生活感が無い。

 目を凝らすと、中には板張りの屋根が朽ちて崩れ落ちている家があるのが見えた。


「……なんだ、ただの廃村か」

「廃村? ……あぁ、あの谷間にある村ですね」

「あぁ。もしまだ集落として機能していたら物資を調達しようとも思ったんだけどな。あの様子じゃあガラクタしか残ってないだろう」

「あれは……おそらくパスタ村ですね」


 アユリアはパイルハンマーの射出機構にグリスを差しながら言った。


「パスタ村? パスタってあの麺の?」

「はい。本当は違う村名だったんですけど、十数年前ほぐれ病が蔓延して村民全員が感染した末に命を落としてしまったみたいで。結局ほぐれた村民の死体が溢れかえって、その様子がまるでパスタが散らばってるみたいだったから、その名が付いたらしいです」

「…… 名付けたヤツ、もしかしなくても人の心がないな?」

「私もそう思います」


 アユリアは少しだけ眉間に皺を寄せ、頷いた。


「まぁ、あそこまで劣化してるのを見るに、盗賊やら野盗に根城として使われてる可能性も低そうだし……廃屋に残ってるのも精々ガラクタ程度だろ。錆びたクズ鉄とか、使い物にならなくなった工具とか、そういう路銀の足しにもならないスクラップしか見つからないはずだ。やっぱりわざわざ立ち寄るメリットはあんまり無さそうだ——」

「いえ、行きましょう」

「……え?」


 ニトは信じられないものを見るかのように目を見開いて、アユリアの横顔へ目を向ける。


「なんでそんな驚いてるんですか? 私はただ行きましょう、と言っただけですよ? あの村へ」

「いやいや、いやいやいやいや……」


 ニトは首を横に振って、遠くに望むパスタ村を指差しながら、


「あのさ、遠巻きに見ても分かるだろう? あの村はとっくの昔に壊滅していて、使えそうな物資が残ってる可能性は限りなくゼロだ。食料も弾薬も、何も得られないんだよ。もしあの村を野営地にするつもりだって言うなら話は変わるけどよ?」

「別にあの村を野営地にするつもりはありません」

「じゃあなんで……」

「そんなの、決まってるじゃないですか」


「『パスタ村には有益な何かがある』——私がそう判断したからです」


 その声には、有無を言わさぬ迫力があった。


 大聖堂を飾るパイプオルガンのように荘厳で、死者を弔う鎮魂歌のように穏やかな声は——どんな戯言だろうと真実に塗り替えてしまえそうな、力強い響きを帯びていた。


「…………分かったよ、アユリア」


 そんな圧倒的な威光の前には、どんな抵抗も無意味に思えて。


「お前がそう言うなら、それに従うよ」


 ニトは自ら首を縦に振っていた。

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