第2章 パスタ村
第6話 カキナラシ
柔らかい日差しが、優しく覆い被さるように天から降り注いでいた。
遥か頭上に浮かぶうろこ雲は地平線まで伸びており、その真下を大鷲が飛んでいる。つんざくような甲高い鳴き声が山間に響き渡った。
「おい、本当にこの道で合ってるのかよ…… ?」
顎まで垂れ落ちた汗を拭ったニトは非難めいた声を上げた。
「合ってますよ。正規ルートからは外れていますけど、これが最短ルートなんです」
「最短ルートって言ってもさ…… その道を進むのに時間がかかったら元も子もないだろ?」
ニトは岩に手を着き、ようやく一息つけた所で自らが歩んできた道を振り返った。
足元よりも更に真下——そこには目も眩むような急斜面が広がっていた。
「わざわざこんな山肌を無理矢理登ってくる必要はないだろ……?」
あまりに勾配が厳しいからか背の高い樹木は一切生えておらず、雑草や野花が岩の隙間から顔を出している程度で植生は乏しい。
足元には大小様々なサイズの石が転がっており、一度足を滑らせれば簡単に転げ落ちてしまいそうだった。
我ながら、よくぞこんな急斜面を登ってきたと他人事のように感嘆する。
「うわ、怖っ…… 」
背中に背負った荷物に重心が引っ張れ、余計に恐怖心を煽られる。
山肌が非常に険しいことで知られるコーンウィル山脈——その脅威をニトは身を以て体験していた。
空へ駆け登るように吹き上げる風に耐えながら、ニトは震える両足でなんとか斜面を昇り切った。
「はぁ……はぁ……こんな急斜面を登るとか、お前正気か!? 俺たちはヤギでもカモシカでもねぇんだぞ!?」
「でも、これで二日は掛かる旅程をたった数時間に短縮できましたよ?」
「それでも! コーンウィル山脈はセオリー通り迂回するのが一番だって…… !ほら、よく言うだろ? 遠回りが一番の近道だって…… 」
「確かにそうですけど、やっぱり近道が一番の近道ですよ」
「そんなぁ…… 」
ふふんと得意げに鼻を鳴らしたアユリア。その顔に疲労の色は見えない。
カモシカのような跳躍力で軽やかに岩場を登り、凄まじいスピードで急斜面を駆け登ってきた彼女。
その上朝早くから休憩も取らず数時間歩きっ放しだというのに、その足取りは一切緩む様子を見せなかった。
「ほらほら、休んでないで立ってください! ちゃっちゃと先に行きましょう!」
しかも、あの断崖絶壁を登頂した後でも明るく振る舞えるほどの気力も残っているらしい。
——やっぱり凄い体力だな…… 。
軍を自主除隊し、アユリアと共に巡礼の旅に出て早一ヶ月。
厳しい旅路の中で、彼女の凄まじい身体能力やそれに物を言わせた無茶振りにも段々慣れ始めていた。
道を塞ぐ巨岩を一撃で粉砕したり、近道だからと危険地帯を通り抜けようとしたり、険しいコーンウィル山脈を強引に横断したりと、例を挙げれば枚挙にいとまがない。
最短で目的地へ辿り着こうとしているのか、毎朝の出立前のルート決定には微塵の躊躇もなかった。
だからこそ、この常軌を逸した超ハイペースな旅程が実現しているのだろう。
この調子なら明後日にはコーンウィル山脈を抜ける。この呆れるほど険しい山岳地帯を脱出すれば、後は比較的楽な道が続くとアユリアは言っていた。
とはいえあくまで『楽』という評価はアユリアによるものであって、ニトにとって楽な道なのかは判らない。
湿地帯を駆け抜けるのか。氷山を渡り切るのか。それともジャングルを踏破する羽目になるのか。
これからの旅路を想像するだけで気が滅入りそうだった。
「急ぎたい気持ちは解るけど、こんな悪路を行くのは違うだろ…… 」
口の中でぶつくさと文句を垂れながらアユリアの後を追う。
険しい斜面を昇り終えて辿り着いたのは、どこまでも続くような細長い尾根だった。
右側は谷の底まで下る急斜面、左側は切り立った崖。
人間一人がやっと通れるほどの道なき道を、慎重に渡っていく。
先程登ってきた斜面と異なり、地面には一切植物が生えておらず無骨で無機質な岩肌が剝き出しになっている。
ぐねぐねと歪曲した稜線は高低差が激しく、ノコギリのようにギザギザと波立っていた。
上下にも左右にも幅の大きい道。山肌を強引に登るよりも多少は楽だが、体力の消耗が激しいことに変わりはない。
わざわざこんな道を歩かなくても、という文句を口に出しかけては喉奥に引っ込める。
反芻運動にも似た逡巡を繰り返しながら、黙ってアユリアの後を付いていく。
……どれほど歩いただろうか。
緩やかな尾根を滑落しないよう慎重に進んでいると、突然アユリアがピタリと歩を止めた。
一体どうしたんだ、と訊こうとした瞬間──。
「止まって」
アユリアが放った鋭い一声に、ニトは反射的に身体を硬直させた。
「隠れて」
アユリアは素早く身を翻し、ニトの手を強引に引っ張ると、付近に転がっていた大岩の影に飛び込んだ。
「ちょっ、いきなりどうし…… 」
「いいから静かに」
「ッ…… 」
アユリアの口調には有無を言わさぬ圧が滲み出ていた。気圧されたニトは大人しく口を閉じる。
「向こう側を見てください」
突然のことに面食らいながらも、ニトはアユリアの指した先へ目を向けた。
尾根の途切れ目、鋭く尖った山頂付近で小さな何かが蠢いている。
岩陰から顔を出して目を凝らすと、それが見慣れない姿の生物だということが判った。
「あれは…… なんだ? 青い、タコ?」
その生物はそうとしか言いようがない容貌をしていた。
青褪めた皮膚は粘液に濡れててらてらと照っていて、三日月状の扁平な頭部の側面にはぎょろりとした大きな黒眼が付いている。
その下から生えた、数多の触手が足代わりに自重を支えていた。
「…… 一体なんだありゃ」
「あれは『カキナラシ』── 漂流者の一種です」
「え? お前、あれのことを知ってるのか?」
「はい。古い友人が漂流者の情報を集めた図鑑を編纂していたので」
そんな酔狂な輩がいるのか、と内心驚くニトを尻目に見ながら、アユリアは文章を読み上げるように淡々と語る。
「あれを強いて表現するなら、異世界の人類でしょうか。ある程度の知能を有していて、独自の言語を用いてコミュニケーションを取るようです」
「…… あの漂流者が異世界の人類? はっ、向こうの世界は随分と楽しそうなパラダイスみたいだな」
「あくまで例えばの話です。…… でも、実際にカキナラシは簡単な罠を張って獲物を陥れたり、粗悪ながらも武器を作る技術も持ってるんです。伶猾で明敏。いかにも人間のようじゃありませんか?」
「まぁ…… 確かにな」
ニトは眉根を寄せて、今一度カキナラシへ目を向ける。
どこをどう切り取っても目を背けたくなるほど醜悪な姿。その扁平な頭部で人間のように物事を考えいるの思うと、胸がざわめくような感覚がした。
「それで、これからどうする?衝突を避けて迂回するか?」
「いえ、恐らく不可能です。両側の斜面が急すぎて回り込むのは無理ですし、何より旅を急がないといけませんから…… 今、ここで仕留めます」
「…… 冗談だろ?」
「私は至って真面目ですよ?」
アユリアはパイルハンマーを抜刀して薄く笑った。
「ニトくんはここからカキナラシの群れのど真ん中に煙幕弾を撃ち込んでください。私が突っ込んで殲滅します」
「そんなことできるのか……?」
「できるに決まってますよ。だって前に一度やってますから」
「そ、そうなのか…… 」
「とにかく、私を信じて煙幕を張ってくれると嬉しいです。タイミングはいつでも構いませんから」
そんなアバウトな作戦で大丈夫なのか、という言葉を喉元で押し殺してニトは準備に取り掛かった。
背中に担いだグレネードランチャーを手に取る。あぶみに足を掛けてストリングを引っ張ると、ポーチから取り出した煙幕弾を装填した。
「あと弾はどれくらい残ってますか?」
岩肌に背中を預けて外の様子を窺っていたアユリアが尋ねる。
「煙幕弾は五。それ以外の弾── 閃光弾、爆裂弾、響音弾は六発ずつ残ってる」
「それくらい残ってるなら、まだ補給は必要ないみたいですね」
アユリアはパイルハンマーの長い柄を握り締めて低い声で言う。
ニトは岩陰から少しだけ身を乗り出すと、簡易スコープを覗き込んで狙いを緻密に調整する。
肩に銃床を押し付け、全身を彫像のように硬直させながら慎重に照準を滑らせる。
息を潜め、汗に湿った頬で風速、風向を感じ取る。思考は一瞬だった。
カキナラシの群れから僅かに逸れて指三本分上。
アユリアの指示通り、放物線を描いた煙幕弾がカキナラシの群れのど真ん中に落ちるように撃ち出すにはそれが最適な位置だった。
「それではお願いします」
「オッケー、巡礼者サマ」
戯けた口調で言うと同時に、ニトは引き金を引いた。 パシュン、という音と共に煙幕弾が発射される。
高く撃ち上げられたそれはニトの狙い通り、カキナラシの群れのど真ん中に吸い込まれるように落下した。
その瞬間、弾けた鉄蓋の隙間から勢いよく白煙が噴き出す。
カキナラシの巣は一瞬で白一色に埋め尽くされた。
『〜〜〜〜!?』
『〜〜〜、〜〜〜〜!!』
カキナラシの悲鳴とも罵声とも聞こえる、濁った鳴き声が煙幕の向こう側で響く。
アユリアの言葉が正しいのなら、あの絶叫にも言語のように一定の意味があるのだろう。さしずめ「これは一体なんだ」「警戒しろ」といった具合か。
そう考えると、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。今自分が対峙している異形の存在がただの怪物とは思えなかった。
思わず視線を逸らすニトの肩にアユリアは手を掛けて、
「ありがとう。よく頑張りました」
チン、という甲高い金属音と共に何かが切り替わる。
刹那、風が吹き荒れた。
「なっ…… !?」
ニトが驚く間もなく、一瞬で山頂まで駆け登ったアユリアがスピードを維持したまま煙幕の中へ突入する。
「はぁぁぁぁぁっっ!」
覇気の籠もった雄叫び── それすらも搔き消すほどの轟音と悲鳴が轟いた。
世界が揺れるような爆音が尾根に響き渡り、岩場の陰から驚いた小鳥が一斉に飛び立っていく。
染み渡るような残響の中で、鳥の羽音がやけに耳障りに思えた。
爆風で煙幕が吹き飛んだのか、視界は晴れ渡っていた。
白濁のベールがなくなった今——武器をだらりと下ろして佇んだアユリアの姿、そして地面に転がる無数のカキナラシの死体が露わになっていた。
地面はカキナラシの血液らしき蛍光色の液体に濡れ、焦げた肉片が飛び散っている。
原型を留めないほどぐちゃぐちゃになった数多の死体が、アユリアを中心に放射状に散乱していた。
辺りには新鮮なウニの臭いにも似た、嫌な磯臭さが充満している。
——まさか…… 一振りで全部倒し切ったのか…… !?
群れのど真ん中に飛び込み、遠心力を利用して回転しながらパイルハンマーを豪快に振り回す。
普通の人間なら重心を持っていかれて、簡単に肩を脱臼したり身体の軸がブレて満足なダメージを与えられないだろう。
だが、アユリアのように卓越した腕力があれば別だ。
子供の戯れのように稚拙で単純な攻撃でも、膂力と武器さえあればそれは容易に人を殺める剣技と化す。
アユリアならぐるぐるパンチでも人を殺せるだろうな、と馬鹿なことを頭の片隅で考えた。
それは一種の現実逃避。
眼前の惨劇から無理矢理にでも目を逸らす行為。
そうでもしないと自分を抑えられなかった。
彼女の人間離れした腕力に怖気付き、咄嗟に距離を置こうとしてしまう臆病な自分を。
「……これで終わり、かな」
ニトの視線の先で、アユリアがパイルハンマーを肩に乗せて息を吐く。
鮮やかな極彩色に濡れた鎚頭が青煙を吐き出して、展開していた射出機構を裡に納めた。
息を切らしている様子も疲弊した様子もない。彼女にとって、それはその程度の作業にしか過ぎないのだ。
多勢に無勢だろうと関係ない。全ての敵を一撃で屠れば、殺戮は一瞬で済むのだから。
アユリアは髪に付着した返り血をハンカチで拭う。
毛先に少し掛かった程度だったからか、彼女の髪はあっという間に艶やかな金色を取り戻した。
まるで血の花園の中に一輪の向日葵が咲いたかのようだった。
「終わりましたよ、ニトくん」
「あ、ああ。そうみたいだな」
ニトは地面に転がる死体を踏まないように避けながらアユリアの方へ歩く。
「怪我はないか?至近距離で爆破したみたいに見えたけどさ」
「特にありませんよ。お気遣いありがとうございます」
「それならよかった…… 」
アユリアなら無事だろうと思って確認程度に訊いたが、改めてほっと胸を撫で下ろした。
「…… それならさっさと先に進まないか?ここにはちょっと、できれば長居したくない」
「…… それもそうですね」
ニトが眉根を寄せて言って、ようやくアユリアは周囲の惨状に気付いたらしい。
パイルハンマーを一振りして鎚頭の返り血を吹き飛ばすと、素早く納刀した。
「それじゃあ行きましょうか。休憩は要りませんか?」
「まだいいよ。俺はまだ疲れてないし、何よりアユリアも早く先に行きたいだろうしさ」
「ふふっ、それもそうですね」
歩き出したアユリアの背を追って、ニトはかつてカキナラシの巣だった場所を出た。
山頂からなだらかに下る稜線は一転して細く、足元に注意して進まないと簡単に滑落しそうだった。
鋭く迫り出した尾根には、その脊梁を飛び越えるかのように強い風が横なぎに吹いている。
ニトは吹き飛ばされないように腰を低く構えたが、アユリアは一切歩を緩めなかった。
「そういえばアユリア、パイルハンマー用の鉄杭はあと何本残ってるんだ?」
「あと四本です」
「前から思ってたんだけどさ、わざわざ爆破させる必要あるのか? パイルハンマー用の鉄芯って使い捨ての武装にしてはかなり高価なんだろ? 先端に高純度の圧縮火薬詰めてるらしいしさ。それに、アユリアなら普通にぶん殴るだけでも威力は出るだろ」
「確実に仕留めるためには鉄杭を打ち込んで、内側から爆破させた方がいいんです。それに…… 」
「それに?」
「スカッとするじゃないですか。爆発って」
「…… んぅ、まぁ、確かにな」
どうやらアユリアは爆発のロマンを解しているらしい。
欠陥品と言わしめるまでに破壊力に特化した兵器であるパイルハンマーを振るっているのだから、当然といえば当然のことだが。
アユリアの背中に灯る鈍色の輝きを眺めながら、素朴な疑問をぶつけた。
「爆発が好きなだけなら、もっと使い回しのいい武器もあるだろ? わざわざそんなピーキーな火薬金槌なんて使わなくても…… 」
「そんなの分かってますよ。パイルハンマーは旅の携行に適した武器じゃないって」
「それじゃあなんで…… 」
「なんでって、決まってるじゃないですか。そんなポンコツ兵器が好きだからですよ」
アユリアはさも当然だと言わんばかりに平然と言った。
「それが好きだから。武器や道具を使うのに、それ以上の理由がありますか?」
「…… まあ、ないよな」
観念したように言うと、アユリアは嬉しそうに声を弾ませた。
「でしょう? ……何かを好きって思う気持ちは、何よりも崇高で力強くその人の背中を押してくれます。だからこそ、その想いは尊重されるべきなんです 」
「まぁ、確かにな……」
「ニトくんも、好きなものはおいそれと手離さないようにしてくださいね? 好きなものというのは大切に思えば思うほど、簡単に指の隙間から抜け落ちてしまうものですから」
それはまるで、人生の中で学んだ教訓を生徒に言い聞かせる先生のような口調だった。
その穏やかな声色の裏に、ニトは何か得体の知れない深みを感じ取った。
驚いたニトは思わず顔を上げ、アユリアの背中へ視線を向けた。
アユリアは疲弊した様子も見せず、機械的に一定のペースを保ったままどんどん先へ進んでいく。
線の細い背中で太陽に照らされた髪が揺れ、星のように煌めいている。
アユリアとの距離はそう遠くない。痛む足に鞭打って駆け上がれば、ものの数秒で簡単に追い付けるだろう。
だが、どんなに走っても彼女には届かない。彼女の真意は知りえない。
「…… ああ、善処するよ」
胸の底にもやもやとした感触を抱きながら、ニトは溜め息混じりに答える。
—— アユリア、お前は一体…… 何を知っているんだ…… ?
背中に乗っかった疑問が解決される気配はなかった。
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