第30話
エヴァンス邸は騒然としていた。
屋根や上階の壁が崩れる音が轟き、使用人やレヒド殺害の件に戸惑っていた軍人たちは一層に警戒して、三階へ向かった。
そこは既に人の気配がなかった。
軍人たちはまとまらない話を繰り返すばかりだ。上官はもういないのだ。
アンジェリカはそんな慌ただしい光景を唖然としながら見ていた。
偶々、屋敷で一夜を明かし、二日酔いも酷くて日中のほとんどをベッドで過ごし、ようやく起き上がれるようになった頃のことだ。
なぜか屋敷は混乱の渦中。
事態が呑み込めず、声をかけられる人物もいない。
のっぴきならない状況だが、エヴァンス家に不信感もあったため、アンジェリカはこっそり帰ることにした。この屋敷の面倒事には関わりたくない。
早く帰って一休みしたい。常連には悪いが、本日のダイナーは休業だ。
一階まで下りると玄関ホールでフウカと鉢合わせた。
「よ、チビ公。なんか酷い格好だな?」
フウカは、いつもの白エプロンを身に着けていなかった。
割烹着の袖には泥を纏い、破けたような傷もある。まるで争った後のようだ。
「お庭で落ち葉の掃除をしていましたっ」
「そうかい。ちゃんと手洗えよ」
じゃあな、と片手を挙げ、通行人のようにすれ違う。
アンジェリカは違和感に気づいた。
「チビ公は上に行かなくていいのかい?」
「……上に、ですか?」
アンジェリカは不審に思って眉間に皺を寄せた。
いけ好かないハダルがいなくなり、屋敷に一番詳しい人物は侍女のフウカであろう。そんな存在が、屋敷の異常な騒ぎを知らないなんてことはないだろう。
「上だよ上。なんか軍の連中が騒いでるぞ」
「え……? 気づきませんでした」
「庭に居たのに?」
「庭に居たのに……です」
「……」
アンジェリカは納得した様子もなく、怪訝そうな顔して歩き去った。
玄関の扉に手をかけ、また足を止めて振り返る。
「通りがけに見つけたら、あたしも掃除しといてやるよ」
「えっ、何をですか?」
「いやだから落ち葉。掃除してたんだろ?」
「あぅ、そうでしたっ」
「……?」
アンジェリカが顎を撫でた。
フウカには不審な点ばかりだ。気になってさらに追及を重ねようとしたとき、手にかけていた扉が勝手に開いた。
「おおう!?」
扉に引っ張られて仰け反る体。
刹那、フウカは後ろに跳躍して間合いを取り、手榴弾を投げ捨ててきた。
目に飛び込む小さな黒い果実のような房。アンジェリカには、それがあまりにも現実離れしすぎていて、一瞬、何なのかが判らなかった。
破裂する瞬間、大きな両手が扉から現れ、蚊を叩き潰すように手を合わせる。
手榴弾の爆発が、その手中で封殺された――。
「あんたは……アイク?」
見上げると大男がにやりと笑った。
アイクは玄関ホールに飛び込み、フウカに迫った。掴みかかろうと手を伸ばすもフウカは腰の翼を広げて飛び、吹き抜けから二階に着地した。
アイクは即座に跳躍し、踊り場の手すりに掴まった。
手すりは折れて階段にも大穴が空いた。フウカは飛び去り、アイクがその後を追うように跳び上がる。
激しい猛追でホールは破壊された。まるで怪物二人の戦いだ。
アンジェリカは目を瞬かせた。
「アンジー、大丈夫?」
扉の外から弱々しい声がした。
扉の裏からリメイが隠れ潜むように声をかけた。腹を押さえて苦しそうだ。
おまけに、いつものガスマスクがない。
口元を見たのは初めてだが、アンジェリカは不思議とその薄めの唇を見て、頭が痛くなった。正体不明の頭痛を誤魔化しながら、アンジェリカは訊いた。
「どうしたってんだい、その腹」
「シッ――。見ればわかるでしょ。黒幕を見つけたわ」
玄関ホールに目配せするリメイ。
「そういうことか……」
アンジェリカは翼の少女を目で追いかけた。
「信じられねぇけど、信じるしかねぇな」
アイクは激しい猛突進でフウカを追い詰めている。
だが、フウカには翼がある。空を飛べるということはそれだけで有利だった。
アイクの突進を、フウカは天井から壁へ、壁から天井へとひらりひらりと飛び去ることで躱している。
その都度、壁が崩れていく。いずれ掴まる壁すらなくなるだろう。
如何な最強の男とて、地の利を取られては持久戦を強いられる。
「アンジー、協力してもらえる……?」
リメイは苦しげに言葉を捻り出した。苦痛は腹の痛みだけではなさそうだ。
アンジェリカは胸を張った。
「当たり前じゃねぇか。家族って言っただろ」
リメイもほっとして微笑んだ。今までとは違う。
己の短所は人を当てにしないことだ。その短所を克服すれば、きっと勝てる。
アンジェリカもどことなく頼られて嬉しそうだった。
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