五章「礼決の村裁判」
第28話
昏い、昏い世界に独りだ。
またこの世界に迷い込んでしまった。
傍にはたくさんの人間がいるはずなのに、この世界に居るのは一人だけ。
他のみんなは動かなくなってしまった。
スコッ……スコー……ス、コホッコホッ――。
擦り切れる音を奏でる吸収缶が、ゆっくり時を刻んでいく。
いつから此処にいて、いつまで此処にいるのだろう。
眼前で息絶えた父親の死相をじっと見ながら、生きるか死ぬか迷っていた。果たして自分は生きていていいのか……?
この擦り切れ音は、呼吸ではなく生の鼓動だ。
咳き込む毎にその灯火は消えていき、やがて自分自身も他の人間と同じように、動かなくなってしまうのだろう――。
試作爆弾の硝煙は人体には有害だった。
肺腑に沁み込めば、即座に神経障害を来して死に至る。仮に防煙装備を調えて直接煙を吸い込まずとも、経皮吸収性が高く、皮膚を介してじわじわと人を死に至らしめるのだ。
――その日は、たまたま鉱山に遊びに来ていた。
リメイを男手一つで育ててくれた父、リタル・コーマイナーは、仕事に対して責任感の強い男だった。そんな父親をリメイも尊敬していた。
採掘仕事は肉体労働だが、繊細であり、手先の器用さも求められる。
リメイは父に教えられた爆弾や火薬、導火線の仕組みも一通り覚えて、鉱山での仕事が楽しいものだと感じていた。父親の働く姿にも興味があった。
その日は特別、大仕事があると張り切っていた父の背を追いかけて、こっそり付いてきていたのだ。
――それが仇となった。
大仕事というのは、ミザン帝国軍が開発した試作爆弾の爆破実験だった。
まだ鉱脈を掘り当てていない山の坑道で行われ、失敗しても失う物は少ないとされた実験だった。現場も緊張感よりも童心に返る鉱夫の笑い声が溢れていた。
『リメイ! 来ちゃダメだって言っただろっ』
リタルに見つかり、リメイは叱られた。
『だって、みんな楽しそうに歩いていくんだもん』
『これは仕事だ。責任があるんだぞ。まぁ楽しむことも大事だが……』
リタルのお叱りを遮るように、大きな爆発音が鳴り響いた。
最初は景気の良い爆発音にはしゃいだ鉱夫たちも、坑道内の地響きと土砂崩れの音を確認すると顔を引き攣らせた。
あらかじめ想定していた避難路も心許ないものだ。
動揺の最中、ついに坑道が崩落する。爆破規模を読み誤っていたのだ。
退路は断たれ、硝煙とともに閉じ込められた鉱夫たち。瓦礫に押しつぶされた者もいて現場はパニックになった。
『リメイ! こっちに来なさい!』
『お父さんっ、怖いよ……!』
『大丈夫。大丈夫だ。お父さんが付いてる』
生き残った鉱夫たちはガスマスクで煙を防ぐも、どうやら様子がおかしい。
爆発の近くにいた者から苦しみ悶え、手足を痙攣させて蹲り始めた。
リタルは娘を抱きしめて坑道の端まで引きずると、手ぶらだった娘の口にガスマスクを押し当てた。
『お父さん……?』
『……大丈夫。すぐ軍の人が助けに来てくれる……』
ミザン帝国軍は町まで視察に来ていた。
爆弾の実験成果を確認するためだろう。爆破音も耳に届いただろうし、すぐ応援を呼んで救助に来るはずだ。
リメイも父親に抱きしめられながら暗闇の中で震えに耐えていた。
獣人種の血が流れるリメイは視界の明暗順応も早く、闇の中でも坑道の様子がすぐ確認できた。
――視えるということを、これほど残酷に思った日はなかった。
鉱夫たちが息苦しそうにガスマスクを外し、嗚咽しながら死んでいく。
防煙用のガスマスクは無駄だったのだ。
嫌な予感がしたリメイは振り返ってリタルの顔を見上げると、父親も既に事切れていた。その死に顔から、どれだけ苦しんだのかがよくわかる。
それでもリメイに押さえつけたガスマスクだけは手放さなかったのだ。
目に染みるような痛みが走った。
ただの涙だが、それがガスを吸って目に染みるようで、とても痛かった。
どれほど時間が経ったのかわからない。
一日だろうか。二日だろうか。冷たくなった父親の傍でじっとしていなければならない地獄は、体温を奪われると同時に心も凍りつかせた。
三日経ち、坑道に光が差し込んだ。
物音は聞こえない。新鮮な風が体を撫で、初めて救助が来たことに気づいた。
体を起こすと、防護服を着たレヒドに驚かれたことは覚えている。
『生きてる……! 生きてるぞっ! き、君、大丈夫かい?』
大丈夫なものか。父親と一緒にあらゆるものを喪った。
失う物が少ないと云われた爆破実験で、すべてを失った。
リメイは反射的に答えた。
『別に、平気よ――』
泣き叫んでも誰も助けに来なかった。死んでいった鉱夫、父親リタルの亡骸とともにリメイもまた、死人になって地獄を彷徨い歩いたような気分だった。
どうせもう死んだのだ。何が起きても動じることはない――。
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