第19話
アンジェリカは、フウカを連れてダイナーに戻ってきた。
出入り口の惨状を見て怒りが込み上げる。ドアは粉々。店内は踏み荒らされ、厨房の奥にある食糧庫も悉く破壊されて滅茶苦茶な有様だった。
――逃げられた。
「くそっ、やられた」
「これはどういうこと……ですか?」
「人狼の仕業に決まってんだろ! リメイのやつ、やっぱり人狼の仲間だったんだ。エリクさんとラーシュさんを殺ったのも、奴らに違いねえ」
フウカはみるみる青ざめていった。
まだリメイが大人しく閉じ込められていてくれれば、助け舟を出すことも可能だった。逃げられては村人からの非難は免れない。
「チビ公。ハダルに連絡を頼む。こりゃ黒人狼事件以来の大騒動だぞ……」
「そ、そうですねっ! 行ってきますですっ」
フウカは重圧に耐え兼ね、一目散にエヴァンス邸に逃げ戻った。
人狼の仲間だと糾弾されるのはリメイだが、ハダルもフウカも同罪だ。アイクの調教は軍の機密事項であり、ハダルがその第一責任者である。
罪なき士官学校の学生が濡れ衣を着せられ、村八分に遭おうとしているのだ。
フウカは罪悪感に耐えられそうになかった。
「はぅう……。どうしましょうどうしましょう。閣下〜〜……!」
フウカは慌ただしくエヴァンス邸に駆け込んだ。
まだ陽も高くない時分。ハダルは優雅にテラスで紅茶を飲んでいた。騒然とした朝の民衆の押し寄せで神経をすり減らした後の紅茶は特別美味しい。その至福の時を邪魔されて、ハダルも不快感を露わにした。
「閣下っ! リメイ様がピンチです!」
「今日は一体全体どうしたっていうのよ。まったく騒がしい小鳥ちゃんね」
「リメイ様が殺人犯だと疑われていて……っ! 隷血種と一緒にいるところを見られたとのことで……えぇその、とにかく緊急事態でありますですっ」
「ふーん?」
ハダルは紅茶のカップをティーソーサーに乱暴に置いた。サイドテーブルに置かれた皿のカチャンという音がハダルの機嫌を表していた。
「――変ねぇ。どうして隷血が村で目撃されたの? アレは我が屋敷の敷地に繋いでいるし、リメイには餌付けの任務しか与えてないはずよねぇ?」
「ひっ……」
ハダルの声色は静かだった。静かだからこそ、その執拗さが際立っている。
「フウカちゃん。一緒に確認に向かいましょうか?」
張りついた笑顔を向けるハダル。――フウカには悪魔の微笑みに見えた。
庭園を横切り、森の獣道を進んでいく。フウカは半歩後ろを歩いたが、ハダルから滲み出る怒りが横顔からでも十分感じ取れた。
きっと隷血はあの場所にいない。森の空気でわかる。普段、あの巨躯が放つ粛然としたオーラは、離れていても肌に感じられるが、今は感じない。
廃戦車の場所には、やはり隷血の男はいなかった。
「やられたわね……」
ハダルは下唇を噛んだ。
廃戦車は砲塔ごと剥ぎ取られている。捻じ切ったのか。怖ろしい腕力だ。
「リメイが入れ知恵して逃がしたのかしらねえ」
「リメイ様は忠実なお方です。閣下を裏切る真似をするとは思えませんが……」
「じゃあ、一年も大人しく捕まってた脳筋の大男が、急に知恵を働かせて戦車を壊して脱走したってこと? リメイが餌を与えるようになってから?」
「あぅう……それは……」
「どちらにしろ、この私に報告がないじゃない。軍人として致命的なミスだわ」
ハダルが顔に怒りを滲ませ、わなわなと震え始めた。
「巨人種の隷血は貴重なサンプルだったのよ。それがあの小娘……! 経歴だけ見て易々引き受けた私が間抜けだったわっ」
所詮は落第生ね、と悪態をつくハダル。フウカは身震いした。
初めてリメイを駅に迎えに行ったとき、遅刻を見逃してくれた。ハダルに詰られたときも助けてくれた。
「リメイ様も何か事情があったのでは……」
「おだまりっ! 私に口答えするっていうの!?」
「あっ……やぁ……その……」
「お仕置きが必要なようねぇ、フウカちゃん」
ハダルが歪んだ笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてくる。
フウカは戦慄して動けなくなった。ハダルの嗜虐性は今に始まったことはではないが、そろそろ身が持たないかもしれない。
強引に腕を引かれ、フウカが連れてこられたのは例の地下室だった。
朝、ちょうど村人に拷問部屋だと紹介したばかりだ。今からそこで自分が拷問を受けようとしているのだから皮肉なものだ。――しかしながらフウカが地下室でお仕置きを受けたのは、これが初めてではない。
初めてエヴァンス邸にやってきた時は優しかったハダル。それがいつの日か本性を現し、虐待を繰り返すようになった。
虐待は日に日にエスカレートしている。
いずれ殺されるのではないか。フウカはそんな恐怖に怯えていた。
拷問部屋に入り、操り人形のように縄で縛られ、吊される。頑丈な縄が体中のあらゆる箇所に食い込み、抵抗すれば皮膚が擦れて痛かった。
「ふふふ、可愛い小鳥ちゃん。口答えしないよう徹底的に調教してあげる」
ハダルは淫蕩とした表情で舌なめずりをした。
地下室に響き渡る鞭の音。一つ、また一つと音が地下に響く毎に、フウカには遅れてじわりとした痛みが襲う。
「ほら、これでどうっ!」
「ひぅっ、ご勘弁を……!」
鞭の乾いた音が耳朶を叩く。
時折、ハダルには言葉で責められ、そろそろ快感を覚えたかを逐次確認された。
そんな感覚は芽生えるものか。痛みが死を回避するための危険信号であることは全ての生物が本能的に理解していることだ。
痛いのは嫌だ。痛みを逃れなければ死んでしまう。
鞭を打ち続ける主人の狂気じみた顔を見やる。――快感を味わっているのはハダルの方だろう。
「さぁて今日はこないだより、もーっときつ〜いのを試してみましょうか」
これが軍人の本性なのか。フウカは鞭で打たれた痛みで、意識が朦朧とした。
朧気な視界に映るのは、主人が壁掛けから肉切り包丁を取り出す姿だ。
「……ひっ」
声にならない悲鳴をあげる。
叩かれるのはまだ我慢できる。しかし斬られるのはご免だ。斬られたら血が出る。斬られたら死ぬ。本能が逃げろと言っていた。
「こないだはほんの少しだけ足の先を傷つけただけだったからぁ……そうねえ。今日は少し上にいって、太ももとかどうかしらぁ?」
「嫌ですっ! 足は嫌ぁあ! 痛いのはやめてくださ〜いっ!」
「ふふ、ふふふふふ。そうやって泣き喚く姿が愛おしいのよねえ」
フウカは必死に足掻いたが、縄が食い込んで逃げることはできない。
ハダルが肉切り包丁を布で吹き上げると、あえて緩慢な歩みでフウカに近づいた。獲物が運命から逃れようと暴れるこの瞬間こそが一番たまらない瞬間だと知っているハダルは、それを味わうようにゆっくりと迫った。
――世界は弱肉強食。そう教え導いたのはハダルの厳格な父親だったガスト・セリア・エヴァンスだった。
クダヴェル州という辺境の、国境山脈の麓に位置する閉塞的な村で、ハダルは領主の嫡子として産まれ、軍人の父親に厳しく育てられた。
抑圧された英才教育はハダルの性格を歪めるには十分な環境だった。
嗜虐性が芽生えたきっかけは、森で出会った小動物を大事に握りしめ、結果的に絞殺してしまったことが発端だ。
それからというもの、ハダルは動物が好きになった。
「ふふふ、ふふふふふふ」
小動物を甚振ることが愉しくてたまらない。
領地内でアイクが現れ、捕らえたことも天恵に思えた。
世界的に希少な種だ。巨人と獣人と人間の三種隷血。痛めつけた時に、どんな悲痛の顔を浮かべるか、今から楽しみで仕方ない。
そんなメインディッシュをリメイが逃してしまったとしたら――。
怒りが収まらない。償いはたっぷりとさせないといけない。フウカと同じように徹底的に甚振ることはもちろんだが、もっと過激なことをしてやってもいい。
あのツンとした態度。鞭で打てば、良いデザートになるだろう。だが、それよりも今は前菜を……。
そこで違和感に気づく。――悲鳴が止まっていた。
「なによ?」
ハダルは足を止めて顔を顰めた。
フウカは目を見開き、ぽかんとした態度でハダルを見ていた。
「小鳥ちゃんらしく、ピーピー鳴いたらどうなの?」
至福の瞬間が奪われたように感じ、焦りを感じたハダルは息を荒らげる。その呼吸を止めたのは、突如として現れた第三者の声だった。
「――少佐、そこまでです」
ハダルは背後の声に驚き、振り向いた。
リメイが立っている。入り口の鉄扉を開いた気配はなかったはず。
どうしてそこに……? いや、いつからそこに?
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