第13話
ラーシュの農場は、エリクの牧場と広場を挟んで正反対の位置にあった。
栽培する作物の種類が多いのか、かなり多くのビニールハウスが並んでいる。離れた位置に放牧地もあり、羊小屋も併設されていた。
驚くことに、ビニールハウスの向こうにある一軒家の扉が開け放たれたままだ。
こんな時間帯にも関わらず、だ――。
リメイは軍服スカート裏に隠していたレッグホルスターから拳銃を抜き出す。
弾倉を確認してスライドを引き、セーフティに指をかける。
「ひぇっ、リメイって本当に軍人なんだなっ」
「しっ……」
用心に越したことはない。警戒心の薄すぎるアンジェリカを黙らせ、ビニールハウスに身を潜めながらラーシュの家を目指した。
耳を澄ませて家の様子を探る。
物音らしいものは聞こえなかったが、それでも何かがいるという漠然とした恐怖心は全身を纏う。
リメイが今まで培ってきた直感が告げる。
――家主はきっともう死んだ。
開けっ放しの玄関まで近づき、壁に背をつけて静かに深呼吸した。心拍は正常だ。思いきって玄関内部に飛び出し、銃を構えた。
「っ……!」
大きな黒い影が蹲っていた。
リメイが銃弾を放つ時には、巨大な影はその場から跳躍した。
轟音が農場にこだまする。黒い影は一階の天井を突き破り、二階に上がった。木片が飛び散る中、リメイはすぐ近くの階段を跳ねるように駆け上がった。
二階の廊下に滑り、影に向かって二発発砲。
影は驚異的な動きで二階廊下の壁を飛び跳ね、突進しながら壁を破壊し、ある部屋に飛び込んだ。
リメイが後を追うと、既に影は外へと飛び出していた。
リメイは窓辺に走り寄り、影を目視しようとしたが、恐ろしい速度で森の中へ溶け込むように消えた。
「あぁ。……まずい」
階段まで戻ると、階下でアンジェリカが騒ぎ散らしながら床に転がる何かを見ている。リメイは階下に広がる血だまりと、ずたずたに引き裂かれたラーシュの死体を確認した。
「……やられたか」
その場でしゃがみ込んで二階の廊下を調べる。
新鮮な血痕が壁に飛び散っていた。大きな影に銃弾が一発当たったのだ。
リメイは階段を駆け下り、外に飛び出した。
「アンジー! 誰でもいいから人を呼んで!」
振り返る余裕もなく、破壊されたビニールハウスの側道を通り抜ける。
影が消えていった森の入り口で立ち止まり、一呼吸置く。もう影は遠くへ逃げてしまっただろう。しかし、痕跡は残っている。
「ふー……」
リメイはガスマスクを外し、ベルトを首に提げた。
村の外でマスクを外すのは初めてだ。
高く通った鼻筋と八重歯が露わになる。リメイは鼻をすすり、匂いを嗅いだ。影が落とした血の匂いを――。
今宵は満月の夜だった。
大自然の空気と満月という好条件が並び、嗅覚は過敏になった。
ぽたりぽたりと落とされた赤い雫の心象風景が脳裏に浮かぶ。黒い影が走り去った道筋が、赤い点の匂いとして脳内に記憶していく。
リメイは森を疾走し、茂みを跳躍しながら影の後を追った。
その敏捷性は純血の人間を遥かに超越していた。
――身体能力は獣人種のそれ。リメイは祖先から受け継いだ走力を駆使して森を駆け抜けた。実のところ、リメイも隷血種だ。
しばらく進んでから匂いが濃厚になった。
血の匂い以外に、火薬や腐卵臭のような匂いが漂う。
これでは血の匂いが掻き消される。あまりに強烈な臭気にリメイは酔いそうになり、腕で鼻と口を押さえて匂いの元へ近づいた。
森を抜けると一気に湿気が立ち込めた。
持ち前の夜目で先々を目視すると、広い範囲に湯気が立ち込めている。
硫黄泉らしい。そこに堂々と浸かって足を伸ばすアイクの姿を確認し、リメイは思わずこけそうになった。
「なにしてるのよ?」
「んぁ?」
呆れた目を向けるリメイ。
アイクは湯から上がり、振り向いた。逆三角の肉体美と、発達した筋肉を惜しげもなく見せつける全裸の男。
「き――」
「き?」
「きゃああああああああっ!」
見慣れぬ男の全裸に驚いたリメイは悲鳴を上げた。
リメイはアイクに無理やり服を着せ、湯から上がらせた。
お前も入るか、という無粋な誘いを一蹴して、リメイは頭から全裸の光景を掻き消すように、ガスマスクをきつめに再装着した。
「なんだ。付けるのか、それ?」
「ええ。ファッションだから」
「口は出しておけ。ウルフミーズが牙を隠したら終わりだ」
「気づいていたの?」
「リメーは最初から獣人の匂いがした」
――軍の犬め。嗅覚が鈍ってんじゃねえのか?
初めて言葉を交わしたあの時には、もう見破られていたのだ。
リメイもまた、その身に獣の血を半分宿している。
隷血種。――この血統を恥ずかしいと思ったことはない。士官学校で気づかれると騒ぎになるから黙っていただけである。
幸か不幸か、リメイは大きく人間の容姿からかけ離れてはいなかった。
獣人種の特徴である犬歯も、人間で云う八重歯程度のものであるし、発達した嗅覚も鼻が高く見えるだけだ。
日頃からガスマスクを装着する理由は、人間社会で暮らす上で嗅覚を封印しないと不自由が多いという点と、また他に一つ理由はある。
「話を戻す!」
弱みを握られまいとリメイは話を逸らした。
アイクとの会話は調子が狂う。野性的で率直な言動に流されないため、リメイは声を張り上げた。
「戻す? ……ああ。この風呂は俺が造った。広くていいだろう?」
「そっちじゃない!」
「むうん?」
アイクの背後では湯気が立ち込めている。
源泉を見つけて温泉を作ったのは大したものだが、今は秘湯発見の自慢話を聞いている場合ではない。
「こほん。――それ、私が撃った傷でしょ」
リメイは指差した。アイクの足に銃弾を受けた跡がある。
止血されて治りかけているが、傷口の口径がリメイの拳銃と同じだった。
「おう。さっき撃たれた。リメーに」
「隠す気ゼロね」
隷血の男はあっさり自白した。
ラーシュの農場に現れた黒い巨大な影の正体はアイクだったのだ。
「隠して何になる。足から血が出たから、ここで洗った」
「すごい。行動も一貫してる」
アイクの行動は素直すぎて、逆に異常にも思えた。
「農場でラーシュさんの死体の傍にもいたわね?」
「ああ、男の死体があった」
「そうよ。あなたが殺したの?」
「いいや?」
返答は端的だった。
言い訳がましい人間より、よっぽど信用できる。
リメイは一言、なるほどと呟いた。
アイクは嘘つきだ。それは餌付けという任務を通して知ったが、殊、生死に関しては誠実な男だとも理解している。
この短い否定は紛れもなく真実だとリメイは悟っていた。
「なんで農場にいたのよ?」
「血の匂いだ。最近この村はどこもかしこも血生臭ぇ」
アイクも獣人種の血が混ざっている。
匂いには敏感で、血の匂いがあれば遠くからでも嗅ぎつけることができた。
惨たらしく殺された命があれば、種族問わず駆けつけるような命への慈愛に満ち溢れた男だ。
「それだけ匂いに敏感なら、誰が殺したかも匂いでわかるんじゃないの?」
「匂いで決めるなら、殺したのはリメー。お前だ」
「私……?」
第一の殺人でも言われたことだ。
エリクが死んだ日の朝、アイクに餌やりをしに行ったら早速犯人扱いされた。今回のラーシュ殺害も犯人だとアイクは言い放つ。理由は匂い。
「私じゃない。例えば私に第二の人格があって、無意識に人を殺して回るとか、そういう二面性も持ってないわ」
リメイには村人を殺す動機もなかった。
獣人種は凶暴だが誇りも高い。
無暗な殺生は働かないのが特性である。もし獣人の凶暴性を理由にリメイを犯人扱いするのなら、その理屈は破綻していた。
「でも、リメーに染みついた匂いがな。周囲の人間の匂いが紛れて、嗅ぎ分けるのが難しい」
「じゃあ、村で私と接点のある人物が犯人ってこと?」
「知らねぇよ」
リメイは頭を掻いた。野生児の推理に期待した自分を反省した。
一人死んでから間もなく二人目の死者が出たことには焦りを覚える。
リメイは探偵でも刑事でもないが、上官の首を絞められ、自らの居場所もじわじわ追い詰められている現状に息苦しさを感じずにはいられなかった。
アイクは温泉の傍らに置かれた衣類を持ち上げた。
大きな手に摘まみ上げられたそれは、サイズ感を見誤って何なのか気づくのが遅れたが、よく見るとリメイの軍服の上着だった。
「湯で洗っておいた。返す」
「これ……どこで拾ったの?」
「羊に被せてあった。情けをかけたんだな。あの羊も感謝してるだろう」
「ああ、アレか……」
動機があってそうしたわけではない。
羊の屍が酷いあり様だったから、景観的にも隠した方がいいと思った故の行動だった。しかし、それだけのことがアイクの信用を得るには十分な行為だったようだ。やけに好意的な目を向けられる。
「むぅ。油断した。――じゃあな」
突然、アイクは苦い顔してその場から跳び上がった。森の中へ消え、廃戦車の方角に向かっていく。突然、どうしたというのだろう。
振り向くとアンジェリカが立っていた。驚愕の目を向けている。
「黒人狼……黒人狼だ!」
騒ぎ出すアンジェリカを見て、リメイは目を塞ぎ、天を仰いだ。
――あぁ、本当に油断した。
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